舟つなぎ松

原文:神奈川県伊勢原市


昔上平間と沼目の境を大山街道が、小鍋島、大島、横内を通り田村の渡しより藤沢に通じていた。上平間地内の遠延寺に大きな松があり、これを舟つなぎ松と云い伝えられ、十年程前に風に倒れて現在は残念ながら形はない。其の松の所より小鍋島の長島、下谷の境迄を渡し舟で渡ったと聞く。

其の頃はいま島と云う字のつく地名は島であったと云う。大島、小鍋島、下島、見附島などが陸地であって上谷、下谷等は谷間であったが、家が出来て上下に分れて上谷、下谷と呼ぶようになったと聞く。尚、沼目、平間あたりは昔の武士が高台を背にして住居を作り、住み付いたと聞く。長島と平間の間を渡し舟で大山参拝者を運んだ舟を平間松につないだ理由は知る由もないが、道路を造る可く道路工事が始まったが、昼間運ばれた土が夜間に皆流れて工事が少しも進まず困ったところが、夜になると白いへびが出て来て土を尾を振りながら水に流すとの事であった。へびを殺すとたたりがあると云うので誰も手のつけようがなく困っていたところ、或る美人があらわれ、私がへびを取って道路の出来る様にするからと云って入定をした(命あるまま葬る事)ら其のへびは出なくなって道路工事が進んだ。入定した婦人は干柿干餅の様な永久食を入れて念仏の鐘を持って穴より地上迄竹の筒を空気穴として三週間位で鐘の音が絶えた時命が終った様だ。

道路が出来て舟つなぎ松は用事がなくなったが、昭和の世迄松は残っており強風の為めに折れてなくなったが、現在は寒川線として舗装も出来て重要な道路となった。又、池の様な湖のあったところはバイパス道路が出来て立派な道路である。名を残した舟つなぎ松の跡は一変して現代的道路として交通文明をあらわして居る。

(太田第三老人クラブ 鳥海弥一 75才)

『郷土の昔ばなし』
(県央福祉事務所)より

追記