善光寺谷に消えた仏さま

神奈川県横浜市瀬谷区


鎌倉時代に偉いお坊さんがおり、信濃の諏訪大社の湖の畔を通った。それから甲斐に向かうと、二匹の蛇がついてくる。お坊さんが蛇に声をかけると、蛇たちは諏訪明神に仕えていたのだが、上人様の弟子にしてほしくてついてきたのだと言ったので、上人は供を許した。

上人と二匹の蛇は長旅のすえ相模に入り、阿久和に来たが、一匹の蛇は旅の疲れで死んでしまった。上人は一遍上人とも遊行上人ともいったが、藤沢のはずれに遊行寺という寺を建てられた。しかし、阿久和で死んだ蛇を哀れに思い、阿久和の丘にもお堂を建て、一寸八分の阿弥陀様を本尊とし、善光寺と名付けた。

戦国時代となって、阿久和も戦火に襲われた。このとき、村の人は村の谷の奥にほら穴を掘って、上人ゆかりの宝物などを隠しふさいだそうな。それで今でもほら穴の上に行くと「平和になっているのなら、早く私を出してください。皆さんとお話がしたいのです」とでも言うように、木魚の鳴るような音がするという。

『瀬谷区の民話と昔ばなし』
(瀬谷区役所)より要約

追記

善光寺という寺はもう阿久和には見えず、寺のことは詳しくわからない。周辺諏訪社も見えない。善光寺谷(やと)という小地名があり(大久保原公園の南側あたりのようだ)、この伝説があるだけだ。

話も歴史的には筋が通らない。藤沢の遊行寺(清浄光寺)を開いたのは遊行上人四世の呑海である。一方、信濃や信濃の善光寺と縁があるのは一遍のほうではある。いつの頃に形成された話かというのが見えればまた違うのだろうが。

蛇のほうも、宝物の穴の中で音を出しているのが、阿久和で死んだ蛇ということなのかどうか、はっきりしない。上のセリフではそのようだが、『戸塚区郷土誌』では「今でもこの上から、強くバタンバタンと踏みつけると、地下で異様な音がするという」という程度である。

さらに、もう一匹の蛇はどうなったのか、というのも全く語られず、気になる。阿久和と遊行寺の縁を語るのが主眼であるなら、遊行寺にその蛇の何かがあるという話になっていたはずだが(藤沢側にそのような話は見ない)。

ともあれ、そもそも大三島の蛇祖伝説を持つ伊予河野氏の出身である一遍上人の時宗には、どこかで蛇が顔を出すはずだ、ということなのだが、こうして思いもかけない場所にそれはあったことになる。それが諏訪の蛇であるという点も、無論よく覚えておかねばならないだろう。