琵琶橋と蛇骨神社

原文:神奈川県横浜市神奈川区


東神奈川から川和への乗合自動車が岸根町停留場に止まると、其の側に小川が流れて居るのを見るであらう。この流れに架せられて居る石橋が琵琶橋といはれるものであった。

どうしてかような典雅な名が生じたものか。話は遠くこの道が鎌倉街道と称えられた時代に遡るものである。ある時一人の盲人が琵琶を携えながら件の流れにさしかかったが、橋が無いので過ぎる事が出来なかった。止むなく琵琶を橋にして渡ろうとしたが、遂に過って川に落ち果敢ない最後となったのであった。其の事あってからは時々この流れから何となく愁えを訴える琵琶の音が聞こえると云われ、それがあらぬか時々川へ落ち込む者もあって、即ち此の音に誘われる為だと伝えられた。不思議な事には馬を引いて此の橋を渡ると、必ず馬が脚を怪我するとて、決して馬は通さなかったという。

又別に一説がある。或る時盲人が東の空を志して此処へ来蒐ると、出逢うた賊の為に惨殺せられ、賊は奪い取った琵琶を携えて右の溝の辺まで来ると、自然と哀れな音で唸り出すのであった。賊は非常に怖れてこの川に投捨ててしまった。其れ故に後に架した橋を、琵琶橋と呼んだという話である。現在でも此の橋の向うにある旧家岩田権蔵氏の家を、此の辺の人々は琵琶橋と唱えて居る。

この岸之根町と篠原町との境の辺、田圃の中には蛇骨神社という名を聞くからに伝説のありそうな神社があった。往昔岸の根村の人たちが隣りの篠原村字蛇袋という所で大蛇を退治した。この大蛇或は蛇袋という土地にすんだからそこの主であったかも知れぬ。日ならずして岸之根一村悉く熱病を患らった、これは定めし大蛇の祟りに相違ないと、一度埋めた蛇骨を掘起して此所に祀り、蛇骨神社と名づけてお託やらお願いやらすると、熱病は苦もなく癒えるばかりか、其の後は不幸な出来事も見ないようになった。

ところが又この話にも別に異説がある。往古岸之根村を開く時、篠原村との境界判然しない両村の面々が車座になって相談した結果、矢を射て見、その矢の立った所を村境としようと極めた。両村から弓の達者が一人宛選ばれて、さて吉日というに矢を放って見ると、その二本の矢が不思議にも一つ場所に落ち、而も一頭の大蛇を同時に射殺して居るのであった。そこで両村では大蛇の祟りを恐れ祠を建てて祀り村堺決定の司とした。これが蛇骨神社である。

土地の伝えは以上で終って居る、勿論文書もなく、又神社の所在も分らない。ここに琵琶橋と蛇骨神社とを二つ並べたことは、深い考えがあったからである。それは右の口碑が各々別途に語られ、且つ二つながら異説を示したが、実は日本に古い時代から語られる琵琶法師の大蛇に遭う昔話の、一変形と見られるからであった。即ちこの話は沢山の文書にもあり、又諸国にも物語られるものであって、昔、一人の琵琶法師山中に休みながら琵琶を弾じて居ると、若者側に来って更に幾つかの秘曲を所望した。若者大に感歎して、この礼にはお前の生命を助けて進ぜよう、実は我れは此の土地の主、大蛇なのである。明日麓の里へ下って里一面を大潟にしようとして居る。決して里へは行かぬよう、又若しこの企てを里人へ漏らしたなら、お前は即座に悩乱して死んでしまうだろうと、凄い話を聞かせて別れた。盲人は山道を辿りながら考えた、自分は目のない無駄人である。自分一人の生命を棄てて、沢山の村人の危難を救う、これに越した善根が又とあろうか。そこで里へ下りて人々へ其の話をするや間もなく盲人は狂乱の体で死んで了った。村人は驚きながらも大蛇の走り下るべき道々に、鉄のくいを、金ものを数多突き刺して置くと、かくとも知らぬ大蛇は果して勢い込んで走って来たが、腹を割かれて息絶えた。村人は大蛇の骨を峠に埋めて、祠を建てて後難を怖れたから峠の名を蛇骨峠と云った。又盲人の恩義を偲んで同じく祠に座頭の霊をも祀るようになった、やはり琵琶に因む名を称えて居る所もある、峠の名も区々であるがとも角蛇骨を主とする名称には、一貫したものがあった。これが法師大蛇に遭うという話の梗概なのである。

此の伝説を岸之根の二つの話を比較して見ると、遥かな時代から語り伝えられた物語が、既にいろいろに変化するものであることを、察し得るであろうと思う。但弓矢の作法を以て村の堺を定めんとすることは、日本の古代からの尊重すべき民俗であった。重に神社の境内がこの方法に依って限定せられたものである。立派な要素がここにも含まれてある事を知って、我が土地の口碑のいやが上に尊いことを悦ばずには居られない。(市電六角橋下車川和乗合自動車岸根町下車)

『横浜の伝説と口碑・下』栗原清一
(横浜郷土史研究会)より

追記