能満寺の本尊

原文:神奈川県横浜市神奈川区


神奈川能満寺の本尊というのは虚空蔵菩薩である。正安元年という昔、八月の出来事であった。内海光善という百姓がある日海へ出て漁をしていたが曳く網にかかって上ったのが朽木で、しかも何の用にも立たぬらしい節ばかりのものであった。其の為めか鱗一つかからぬ。光善一つ舌打ちして朽木を又海へ投げた。それから場所をかえて網を投げ曳上るとこの節の朽木が掛るのである。こうして幾度捨てても必ず網にかかって浮き上るのであった。光善あまりの不思議に、これは何ぞ訳があろうと、遂に我が家へ持ち帰った。

すると光善の娘が俄に狂い出して飛び廻るのである。驚いてとり抑えようとすると、するりと袖の下を潜って遁げ出し、とうとう海中へ飛び込んだ。あれあれと見る中、海上を走ること恰も陸を駆けるが如く、四五十町も遥かの沖合へ出て、その姿は見えなくなった光善狐に化された如く呆然としていたが、せめては娘の死骸でも探さんものと小舟の用意をする処へ、鉄砲玉の如く陸を目がけて娘が飛びかえり、血走る眼に口走っていうことには、汝が網にかかった朽木こそ、房州は清澄の閼伽井に七百年の星霜を経し霊木である。早々寺を建てて我を供養せよ、無辺の利益を授くべしとあって、娘は忽ち元の如く正気となった。滄海を飛行させたのもこの霊力のなすところと、光善今更のようにうち驚き、村の人々を語らい、今の地に堂宇を建立することとなった。成就の時に不思議や紫雲舞い下ってこの一堂を覆う、人々奇異の思いに仰ぐうち、一陣の風吹き来ってこの紫雲自らに散ずる、見れば今ここに安置した朽木は即ち三寸九分の虚空蔵菩薩の御姿と変じ給う。光明赫々としてあたりを輝かした。畏れ又謝して長くこの堂の本尊と崇めたという。この堂こそ即ち今の能満寺なのである。(市電神明町下車)

『横浜の伝説と口碑・下』栗原清一
(横浜郷土史研究会)より

追記