八幡さまの神獅子舞い

東京都葛飾区


葛飾の一帯は水害に苦しんだ土地だった。二合半村も土堤に囲まれた全くの窪地で、溢水があればたちまち沈む運命にあった。ある年の大雨の際も、水嵩が増すに連れ、唯一の望みである対岸葛西領の堤の先の決壊を祈るばかりだった。

ところで、二合半には古い三ツ獅子がある。それは異形の東北の剱舞形の鹿頭で、枝角のある竜神の姿そのものだった。その舞は勇壮であり、牡獅子、中獅子、小獅子からなるが、その頭が蛟に似ることから、「みずち」が訛って三ツ獅子となったのだともいった。

そして、その大水の時のこと。日が暮れた後、二合半の水連の達者な若者が、この獅子頭を被り、夜陰に乗じて荒波を切り、対岸の西葛西村に泳いだ。濁流の中にこの姿を見た西葛西の人々は、大蛇が出た、と叫び逃げ去り、獅子頭の若者は西葛西の土手を切ったのだという。

それで、西葛西は濁流に飲まれたが、二合半は助かったのだそうな。この被害を重く見た幕府により西葛西村の復興は急ぎ助けられ、切れた土堤も現在の桜土手となる大堤に造り変えられた。水害の憂いもなくなった頃、西葛西と二合半も和解し、二合半から西葛西へは、三ツ獅子の写しと神獅子舞の秘伝も伝授されたという。

『かつしかの昔ばなし』萬年一
(葛飾文化の会)より要約

追記

これは、柴又の八幡神社に納められている獅子頭の話。もとは柴又の豪農の家のものであったというが、ひとりでに抜け出し米を食ったとか、川に流しても泳ぎ戻ったなどの伝があって、鎮守八幡に納められたのだそうな。

江戸の低地にはこの対岸の堤を切るという話がまことに多く、またそれはしばしば上のように獅子頭を被って竜蛇に擬態した人の手により行われる。柴又二合半のこの話は、中でも直裁な表現でその筋を語ったものといえる。

しかし、ここではそれらの詳細には踏み込まず、ただ一点、その獅子頭を竜蛇であると明言している事例ということで引いた。さらに、後付けだろうが三ツ獅子が蛟からの転訛であるという話まで加えられている。各地の雨乞いの呪具としての獅子頭の話などからは、常に参照されることになるだろう。