消える乗客の正体

山梨県富士吉田市

幽霊の話ではないが。昔、このあたりは西湖からこちらまである大きな湖で、それが熔岩で切れた。だから、下吉田の弁天さんも、もとは西湖の岸にある弁天さんだった。

それで、西湖の青木ヶ原で、タクシーに乗って、弁天町までといった人がいた。お姫さん(お姫水神)のところに。幽霊だという話をしたら、それが弁天さんだよと。弁天町の池も、昔はつながっていたものだから、領分ということだろう。

ところが、弁天さんのお社の中に、子供のお御輿だのなんだのが積んであって、西湖から来た弁天さんが入れないでいた。総代さんが頭痛になったり、病気が出たりしたので、オウカガイに見てもらうと、社の中をきれいにしないから弁天さんが入れなくてうろうろしている、と言われた。

『富士吉田市史 民俗編 第二巻』より要約

元話は語りそのままではかりがたいところもあるが、概ねこういう話。要するに、西湖の弁天さんが、かつて水続きだった(とされる)富士吉田市下吉田の弁天町ないしお姫坂の水神の所までタクシーでやって来ることがあった、という話である。

富士五湖のうち、西から本栖湖・精進湖・西湖は剗の海(せのうみ:精進湖と西湖がつながっていた湖)・古剗の海(更に本栖湖までつながっていた湖)といわれ、現在でも水位は同じであり、連動している。

しかし、剗の海の分断は貞観の大噴火の際のことであり、さらに古剗の海の分断というと三千年前のことだという。そもそも西湖と富士吉田市の間には河口湖があるわけで、話のような「西湖がここまであった」というのはどこかで話が間違った結果だろう。

ただし、山中湖以外の四湖が大昔一つだった、という感覚は同地域に根強く、そのへんの大雑把な「大湖だった」感を良く伝える話であるとはいえる。そのような土地感覚のある所の弁天さんが「タクシー」の時代になってなお移動するというのが殊の外面白い所だろう。

現代の怪談の代表格である「タクシーに乗る幽霊」というのも弁天さんのこととして存外古くからある話なんだろうと思わされる。