火雨塚

群馬県高崎市

推古天皇の御代や天智天皇の御代にも火の雨が降りそそいだという記録があるが、大昔にはこうした不思議な火の雨が降ったといい、群馬県岩鼻村栗須の原あたりにもそのような火の雨が降ったという。

人々は肝をつぶして途方に暮れ逃げまどい、火傷を負ったり命をなくしたという。幾度も火の雨に見舞われて里人は、この大難から逃れるべく、大きな石の室を設け塚を築き、火の雨が降った時は一家をあげてここに逃げ隠れたのだという。

栗須の原あたりにはあちらこちらに勘定できないほどの塚が点在しており、これらが火雨塚であったという。日本書紀に火雨とあるのは、書き写す間に大雨が火雨となったのだとも、氷雨を火雨と変わったものであるとも学者達はいっている。

暁風中島吉太郎『伝説の上州』
(中島吉太郎氏遺稿刊行会・昭7)より要約

今栗須というと藤岡市内の栗原だが、古墳がたくさんある岩鼻村の栗須の原とは、高崎市岩鼻町あたりと思われる(栗須の原という名は見えないが)。そして、そのあたりの古墳群が火雨塚と呼ばれていた、ということだ。榛名山の噴火で埋もれた武人の発見(渋川市)で注目を浴びた地域ならではといえる。