推古天皇の御代や天智天皇の御代にも火の雨が降りそそいだという記録があるが、大昔にはこうした不思議な火の雨が降ったといい、群馬県岩鼻村栗須の原あたりにもそのような火の雨が降ったという。
人々は肝をつぶして途方に暮れ逃げまどい、火傷を負ったり命をなくしたという。幾度も火の雨に見舞われて里人は、この大難から逃れるべく、大きな石の室を設け塚を築き、火の雨が降った時は一家をあげてここに逃げ隠れたのだという。
栗須の原あたりにはあちらこちらに勘定できないほどの塚が点在しており、これらが火雨塚であったという。日本書紀に火雨とあるのは、書き写す間に大雨が火雨となったのだとも、氷雨を火雨と変わったものであるとも学者達はいっている。