火雨塚

原文

推古天皇の御代帝が耳梨の宮に御席あったとき、不思議にも火の雨が降った。空一面は夕焼けのような色となり、真紅色した恐ろしい雲は行き交い、飛び交って火の雨はさながら大火事のとき火の粉が降るように降りしきり、御殿の御庭に積もり積もったと云う。また天智天皇の御代にもそうしたことがあった。それは御即位第九年四月のことであった。稲光を見て居れば目は自然と閉じる程光り、雷鳴は耳が聾になる程に鳴りはためき、天は裂け、地は割れてしまいはすまいかと思われるばかりであるのに恐ろしくも火の雨は降りそそいだと云う。

大昔には、こうした不思議な火の雨が降った。群馬郡岩鼻村栗須の原あたりにも火の雨がときどき降った。里人は初めて火の雨に遭ったときには肝をつぶし、魂を失して途方に暮れ、火の雨から逃れる術の考えも出ず逃げまどい、隠れそこない或る者は火傷し、或る者はそれがためあたら命をなくすのであった。

幾度も幾度も火の雨に見舞われた里人は、いろいろと火の雨の大難からのがれる方法を考え出した。そのうちでも最もいいとされたのは、大きな石の室を設けた塚を築いて置いて、さあ……!! 火の雨が降りそうな空模様だ、降り出したと云うときには、早速一家を挙げてその石室に逃げかくれると云うことであった。里人は、そうして恐ろしい火の雨の難から逃れた。

昔、栗須の原のあたりには、あっちにも塚、こっちにも塚と一寸勘定も出来ない程多くの塚が諸所方々に点在して居た。其の塚はみんな火の雨の難から逃れるがためにつくられた塚で、大きな石を積みかさねて石の室を拵らえ、それに土砂を盛ったもので、大きなものになると三、四十人が程も這入ることが出来るようになって居る。小さなものでも五、六人に這入れるようにしたもので、こうした塚はみんな火雨塚の名で云い伝えられて居たと云う。

日本書紀に火雨とあるは、幾度も幾度も写し写して居る間に大の字が火の字になったもので、初めは大雨であったのだと云い。また氷雨が火雨とかわったものであるとも学者達は云って居る。

暁風中島吉太郎『伝説の上州』
(中島吉太郎氏遺稿刊行会・昭7)より