昔、今泉の舘山に、頭の三つある大蛇がいた。毎月村の牛と鶴を三頭三羽ずつ喰うので、村人は困った。また、大蛇が怒ると、川や池や田の水を飲み干してしまったり、逆に大雨を降らせて洪水を起こすなどするのであった。しかし、大蛇は白方神社の使え様で、舘山を七巡り半もする大蛇であり、どうしようもなかった。
ところが、ある秋の夜明けに、村の上組と下組の鶴が二羽、檻を破って南へ飛び、冬になると一人の旅の坊様が来た。坊様は名主の家で大蛇の話を聞くと、神社に参り、真言を唱え後ろの大岩を金の五鈷で打ち続けた。
すると、大岩が物凄い音をたて二つに割れ、大蛇がとびだし、天へ向かって昇り消えた。そして、大きな岩が空から神社の庭に落ちてきたのだった。これより今泉に大蛇の禍はなくなった。大蛇は大石になって今も神社の庭にあるが、この坊様は弘法大師であったという。
岩瀬の白方神社というと、茨城国造建許呂命の子、石背国造建弥依米命が河内の枚岡神社を勧請した社といい(社家の吉田家は国造の末裔だそうな)、同地の古代を色濃く語る場所であるのだが、このような大蛇を使いとしていたという。
枚岡神社第四殿を勧請したというから、なぜか遠回りして建御雷之男神を祀る社のはずだが、今は建弥依米命と祖神の天津彦根命を祀るようだ。蛇の岩なるものが現状どうあるのかは不明だが、そもそも舘山自体が岩山であり、磐座の中段にあるような白方神社ではある。
その使いの三つの頭をもつ大蛇というのがどういう存在なのだかは全くわからないが、会津のほうにかけて(一般に蛇を使いとする神社とは別に)古社が蛇に結び付く話がまま目につく。
会津総鎮守の古社である伊佐須美神社は一方で四道将軍にまつわる社だが、その杜には大蛇がおり、遷座の地を見つけるのに活躍したり(「大蛇の通った道」)、姫に思いを寄せて襲いかかったりなどしている。
さらに博士山の西に行って柳津には飯谷神社があって、元龍蔵権現といって空海の開山だともいうが、その飯谷山のヌシも大蛇であったらしくある。また、兎を使いといい、竜蛇と兎の関係を語る神であった可能性もある(「飯谷神社と野老沢」など)。
そのような中にあって、白方神社の大蛇はその磐座であろう岩山の内に普段は潜んでいたらしくあって、実に興味深い存在となる。また、鶴が重要な意味を持っていたようであったり、調伏されて再度大石となったりと、いろいろ謎のある話でもある。