中郷の安国寺のそばに修どんという人が住んでいた。子どもがなかったので、色々な動物を飼っていた。ある日、修どんは不思議な卵を拾い、いろりで暖めて孵すと、可愛い蛇の子が生れた。
蛇は小さいうちは良かったが、大きくなると悪さを始めた。蛇を納戸に隠しても、人々は怖がって修どんの家に近よらなくなった。しかたなく修どんは蛇を近くの池に放したが、それでも悪さはやまない。修どんは、そんなことでは遠くへやってしまうぞと叱った。
すると蛇はひどく悲しんで、悪さは私の目がするのです、この目をえぐりとって下さい、と嘆願した。可哀想に思いつつ、修どんがえぐり取ってみると、それは如意宝珠という大変な宝物だった。
修どんはこれは自分が持つべきものではないと、天子様に献上した。天子様も大変に喜ばれ、多くのお金を下さったので、それを元手に修どんは分限者になり、全国のお寺に寄進をした。
話型的には「蛇息子」になると思うが、その蛇が目玉を残す、という珍しい話。蛇息子(蛇とも限らないが)が自己犠牲を払って(というより仏教に言う捨身となる)富をもたらすというのは大陸的、といえるかもしれない。しかし「悪さは目がするのだ」といって目をえぐるという意味合いは良くわからない。
ところで、この話は中郷の安国寺(現存)近くのこととあるが、同市でも海を渡った下甑島のほうに、「スドー」という名の蛇息子の話がある(「スドー銭」)。
もしかしたら、上の話では養父の名となっている「修どん」は「スドー」と同じところからの名で、同根の話ではなかろうか。スドーの話は、朱銅銭なる貨幣の由来を語るものだが、こちら修どんが天子より下賜された財を「修どん銭」といってもほぼ同じ意で通る。