甲人の塔

静岡県賀茂郡松崎町

一條の塔の平に甲人の石塔というのがある。甲人は甲州の猟師で村人を救おうと大蛇に挑み呑まれ、この冥福のための石塔なのだという。昔、岩科村の南の大池に大蛇が棲み、人畜を害した。このとき、甲州の弓をよく使う猟師が訪れており、大蛇の患を聞いて自分が退治しようと請け合った。

大蛇が大池と峯を隔てた檜ヶ原の池を往来するという話を聞いた猟師は日々山を窺った。しかし、出かけた猟師は帰らなかったそうな。残されていた弓と血の跡を見つけた村人は猟師の家に知らせた。猟師には弓を良くする二人の娘がおり、姉妹は知らせに悲泣したが、やがて大蛇への復讐を誓った。

姉妹は哀れにおもう村人の協力を得て大蛇を探し出し、ついにこれを射殺した。今、蛇腐(へびくさ)という所が、大蛇が斃れた地であり小杉原にあるが、菩提を弔うために建てた草案を大蛇という。また、姉ヶ窪・妹ヶ窪の地名は姉妹が大蛇を待った所、蛇廻り嶺は蛇の越えた所だという。

この地方の人々は衰えずこの話を伝えてきたが「惜哉郷里名字を失う。時代は、聖武帝或は桓武帝の時也と云う」と「豆州志」は、この伝説に考註している。

藤沢衛彦『日本伝説叢書 伊豆の巻』
(日本伝説叢書刊行会・大7)より要約

伊豆半島最大の竜蛇伝説。大蛇という草庵、大蛇院は今もあり、大地院と名を改めていた、というが、今地図上はまた大蛇院と出ている。近くに竜爪神社もあるが、どうもこのあたりは鮫の(歯の)化石などが出たらしい。

話に見るように、広い範囲の地名文物の由来譚として語られる。今も見られる蛇石では「蛇石」の題で語られ、射られた蛇が七日七晩のたうちまわった谷を蛇ヶ狭(じゃんさま)というが、その由来譚としては「蛇ヶ狭」の題で語られる。

そのような訳で、甲人の塔(現存)は南伊豆町内となるが、話の中心となる小杉原(姉の名を小杉といったとも)の大蛇院がある松崎町の伝説とした。また、かくのごとくいろいろさまざまに語られることからバリエーションもあり、大蛇院の話では、父は甲州から来た絹商人ともいう。

ともあれ、多くの話系、地名文物の実際をたどるのは又の機会として、ここではその話の大枠の特異性を指摘しておこう。姉妹が父を呑んだ大蛇を討つという、これは非常に珍しい大蛇討伐譚であるといえ、他に類を見ない。故に、にわかには解説もできない。

ひとつ思うのに、これは本地ものの由緒縁起を反転したような話なのではないか、というのはある。父の中将が出奔し(入水し水神格となっている)、これを探し求め旅に出た姉妹もまた各々入水し水神格として顕現するなどの話は見るが、そういう筋を反転しているように見える。

また一方で、これは「山立根本巻」のような一種の狩猟免状の話を目指して紡がれてきたのじゃないか、という感じもある。姉妹は伊豆の狩人の祖である、というような。しかし、これも実際そのように語るものは聞いていない。

併せると「伊豆之山立根本巻」が本地ものを参考につくられ語られたか語られようとした、といった面が見えはしないか、ということになる。広い山中の地名文物名のフォーマットとしてこの話が語られた理由というのは、今のところそういう線でしか想像できない。