昔、谷口の弁天近くに「おとんじょ池」という渕があり、大鯰が棲んでいた。ある時、付近の老人がここで釣り糸を垂れていたが、漁がなかった。ところが帰ろうかという時になり、恐ろしいほどに糸が引かれ、上げようとしてもその大物はなかなか上がってこない。
大変苦労してやっと釣り上げてみると、それはヌシと思われる大鯰であった。嬉しさに勇んで老人が帰ろうと七曲の坂道を登ると、「おとんじょやーい、おとんじょやーい」と呼ぶ声が聞こえた。気のせいかと思って歩き出すとまた聞こえる。
老人は恐ろしくなって、池の畔に戻ると大鯰を放してやった。すると、不思議にもその鯰は、忽ち大蛇となって波の中へと消えていったという。
谷口というと谷口橋のあるあたりで、大井川右岸側、式内の敬満神社や大楠神社のある北側と思われるが、今は水神社の丘があるばかりで弁天というのはわからない。あるいは水神社がこの弁天さんなのだろうか。
同地には、かつて築堤の際に人柱がたてられ、その娘を弁天と祀った、という伝説もあり、「おとんじょ」が「乙女」の意だとすると、この鯰-蛇のヌシはその娘の化身なのかもしれない。
面白いのはヌシが大鯰であり、しまいに大蛇と化している点だろう。「物言う魚」の話は一般に大鰻が主役であり、それが蛇となる場合もあるが(神奈川県の「雨の主(蛇)」など参照)、直接変身するというのは珍しい。この系統の話の肝に「それが蛇のような魚だから」そうなる、という感覚があることを示す事例かもしれない。