火とぼし

原文

むかし、上諏訪(諏訪市上諏訪)は、いちめんにぼうぼうと草がおいしげっている原っぱでした。家も、ここんところに一けん、あすこんところに二けんというように、ぽつんぽつんとしかなく、さびしい村でした。

そのころ、湖のほとりにひとりの娘がおりました。畑や田んぼの仕事を、いつもせっせとするので、はたらきもので知られていました。

きんじょに、ひとりの若ものがおりました。朝から夜まで、どんどんと仕事をするので、はたらきものでとおっていました。

いつしかふたりは仲よくなりました。一日の仕事がすんだ夕ぐれ、湖水ばたにたたずんでは、ザザザとかるくうちよせる波の音をききながら、たのしくかたりました。

やがて、おたがいにふかくあいしあいました。

そのうちに、若ものは、湖をとびこえた西の村へ移って、はたらくことになりました。

ふたりは、わかれなくてはなりません。

「ねえ、おまえさん。わたしもいっしょに、つれていって……ね。」

娘はたまらなくなって、ひっしになってたのみました。

「いやいや。そういうわけにはいかねえ。いままでどおり、まじめにはたらこう。たとえはなれていても、この湖水の水が、東と西にわかれているおれたちの心と心を、しっかりむすびつけているじゃあねえか。」

若ものは、やさしくなだめるようにいいました。

娘は、若ものにそういわれてもなかなかしょうちしません。どうしてもいっしょにいくといいはるのでした。

そこで、ふたりはこんなことを考えてやくそくしました。若ものが一日の仕事がおわった夜、西の山にたいまつの火をともします。娘はそのあかりを目あてに、はるばると湖をまわっていきあうことにしました。

若ものは、湖の西の村にうつりました。

夜になりました。娘はもうじっとしておられません。たかなるむねをぐっとこらえて湖の岸べに立ちました。そして、湖の西の山にともされるあかりを、いまかいまかとまちうけました。

やがて、まっ黒いすみをながしたような西山の中ふくに、パッと、小さい玉のようなあかりがうまれ、光が矢のように娘の目にとんできました。

「あの人がともした火だ。」

娘は、ともされた火に、ぐんぐんすいつけられたように、歩きつづけました。

まるい湖のまわりをぐるっとはんまわりして、若もののむねにとびつきました。

娘のはいていたぞうりはきれ、白い足からは、血がにじみでていました。

娘は、むねのところからさっとお酒のはいったとっくりをだしました。若ものはなによりお酒がすきでした。

「このお酒は、いったいどうしただやあ。」

娘についでもらって、ちゅっと、若ものはのみほしてたずねました。

娘は、うれしそうにわれっているだけでこたえませんでした。そのお酒は、いましがた、おかんをしたようにあたたかく、若ものの心もからだもあたためました。

それからあと、若ものは毎晩火をともしました。すると、娘が湖をはんまわりしてきて、たのしくかたりあいました。

そんなことを、きちんときまったようにくりかえしていました。しかも、火をともしてから、娘がくるまでの時間はだんだんみじかくなり、むねの中からとりだすお酒のあたたかさは、日ごとにあつくなっていきました。

(あー。この湖さえなかったら、若もののところへひとおもいにいけるのに。……できることなら、湖の水をのみほしたいものだ……。)

娘はそう思うようになりました。

ある夜のことでした。若ものはいつものように火をともしました。すると、あっというまに、娘があらわれたので、おどろきました。

「こんやは、どういうでこんねえに、はえーだや。」

若ものはふしぎに思ってききました。娘は、わらっているだけでこたえません。いつものように、とっくりにはいったお酒と、こんばんは、それにいまにたばかりのような、あたたかい湖の魚をおかずにそえてさしだしました。

若ものは、まっくらなやみの中で、あかあかともえるたいまつのあかりに、てらしだされた娘を、じっと見つめました。目はきらきらと、夜のねこの目のように、するどく光っています。あたまの毛はばらばらにほどけて、そのさきからは水がたらたらとしたたってました。

──あっ、この娘は、湖をおよぎきってきたのだ。女の身で湖をおよいでくるなんてただものではない。もしかしたらまものではないか──

若ものは、ひょっとそんなことを思い、ひんやりとしました。

そののち、若ものは娘とあうのがおそろしく、なんだかいやになってきました。

娘にたいしてもだんだんつめたくなり、あうのもよろこばなくなりました。そして、いままでおいしいと、のんでいたお酒も、一てきものまず、うまいといってたべていたおかずの魚も、すこしもてをつけなくなりました。

「おまえさん、このごろどうしたっちゅう。」

娘は、わんわんと泣きながらわけをたずねました。しかし若ものは、おしのようにだまりこんでいました。

「わたしは、ただ、ちょっとでもはやく、おまえさんにあいたいと思って、湖をおよいできたんだよ。けっしてまものじゃないんだよ。……家をでるときにとっくりをもち、およいでくるとき湖の魚をつかんで、それをむねにおしあててあたためてきたんだよー。」

娘はそういって泣きくずれました。でも、火のような娘のあいのことばも、若もののかたくなった心をとかしませんでした。

そのとき、若ものはおそろしいことを考えていたのです。小坂観音(岡谷市湊小坂)の沖は、諏訪湖のうちでいちばんふかいところです。娘にそこをおよがせて、おぼれ死にさせようと思ったのです。

それからすこしたった、お月さんのでている夜のことでした。こうこうと明るい光が、諏訪のぼんちをひるまのようにいっぱいにてらしていました。波ひとつない湖の水が、こおったように青白く光っています。湖の東の家いえが、くっきりと見えました。

若ものは、いつもとちがったところ──小坂観音の上に火をともしました。

「おや、おかしい。こんやはあんなところに火がみえるわ。」

ふだんは湖のま西につけられた火が、こんやにかぎってずっと南の方によっているのです。娘は、ふしんに思いましたが、すぐにいつものように湖の中へはいりました。

冬のはじめです。湖の水は身を切られるようにつめたいのです。でも若ものを思う娘の心も、からだも、火のようにまっ赤にもえていました。

若ものは、息をこらしてじっと湖の上を見つめていました。青白く光るおぼんのような湖の上を、もえるようなひとつの赤い火の玉がつきすすんで、黒いひとすじのあとをのこしました。

「あっ。娘だ。」

赤い火の玉はぐんぐんとこちらへ近づいてきました。耳をすませば、ザザザザザと水をかきわける音が美しいリズムとなってひびいてきます。赤い火の玉はますます赤くもえました。水をかきわける音はどんどんとはやさをましました。湖の東からまん中へ、まん中から西へと、娘のとおったあとに黒いすじがつけられました。

やがて、小坂観音の沖へきたときでした。いままでいきおいよくすすんできた赤い火の玉が、ピタリととまりました。そして、右に左にこきざみにぐらぐらとゆれました。そして、ぷすっと火の玉はきえてしまったのです。若ものの思ったとおり、あわれ娘は、ふかみにはまっておぼれ死んだのでした。

そのつぎの朝、小坂観音の岸べに娘のもってきたとっくりと、おかずの魚がうちよせられていましたが、娘の死たいはついにうかびません。湖の底ふかくしずんでしまったのです。

まもなく、若ものも、えたいのしれない病気にかかって死んでしまったそうです。今でも若ものが、火をともした山を、火とぼし山とよんでいます。

 

お話 岡谷市湊花岡 浜銀重さん

竹村良信『諏訪のでんせつ』
(信濃教育会出版部)より