上郷野底の姫宮は、人も通わぬ奥にあるが、年一度の祭礼には年頃の娘を人身御供に出すのが例になっていた。祭りの前日に白羽の矢が立った家が、その娘を差し出さなければ、その年は田畑を荒らされて作物が穫れないという。その年も矢の立った家で親子が涙に暮れていたが、そこに旅の侍が通りかかった。
岩見重太郎であったというその侍は、事の次第を聞くと、そのような神はない、野干変化の仕業に違いない、拙者が娘御に代わり赴き、退治して進ぜましょう、と言った。村中の人がこれに喜び、侍は白木の箱に入って人身御供になったように拵え、山奥のお宮に供え置かれた。
夜が更けて丁度真夜半というころ、怪しい足音が近づいた。侍が箱の隙間から見ると、大きな黒い影が拝殿の上に現れ、箱の蓋に手をかけた。その途端に拳も通れという侍の刃が怪物の喉を貫き、さらに侍は箱の中から躍り出て切って切って切りまくった。
やがて怪物は深手を負って山奥に逃げ去った。夜が明け、恐る恐る宮へやってきた村人たちと侍が血の痕を追って探すと、大きな岩陰の洞穴に年経た大狒々が鮮血に染まって斃れていた。それから姫宮の人身御供はなくなったそうな。
今も山奥とはいえ、周辺はキャンプ場などになって鬼気迫るところというのでもないが、姫宮神社は現存し、この伝説の舞台としていろいろさまざまな紹介がなされている。
岩見重太郎が人身御供を要求する怪物を退治したという話は、大阪市西淀川区の住吉神社の伝を嚆矢に、京都・三重・新潟などにも見られ、越中黒河では「よーたか(黒河夜高祭)」祭として今も盛んに語られている。
これが伊那にもある、というのがこの姫宮の話だ。この類の話は一方で、化け物が苦手とする霊犬との闘い、という方向に行くものもあるが、その話の代表である霊犬早太郎伝説のある伊那谷にまた岩見重太郎の話があるというのは面白い。
また、竜蛇伝説ではないこの話を引いたのは、ときとして岩見重太郎が討伐する化け物が狒々ではなく大蛇であることがある、ということによる。そして、まさに重太郎が大蛇を倒したという話も伊那にはあるのだ(「悪い滝の主を退治した勇士」)。天竜川の対岸の話であり、かなり近い所、といえる。
さらに、岩見重太郎が化け物を退治して回ったという時代背景は、概ね天正年間と思われるのだが、伊那にはこの時期に相次いで武家が大蛇を討伐したという話が記録されている(「漆戸の淵」など)。時期の一致が何を意味するのかは現状不明だが、なにかあるように思える。