矢切の怪談

東京都葛飾区

昔、江戸川の矢切あたりで投網をしていた男があった。ある晩、いつものように網を投げていたが、この日に限っては雑魚一匹もかからないのだった。そのうちに日はすっかり暮れてしまい、気が付けば一寸先も見えない闇夜。さらには生臭い風まで吹き始め、男は不気味さに寒気を覚えた。

と、耳元に人のうめき声や泣き叫ぶ声が聞こえる。男は冷や汗がはしり、舟の上にへたり込んだが、どうにか気を取り直すと無我夢中で家へと逃げ帰り、気を失った。物音に驚いたおかみさんがあわてて暖め酒を飲ますなどし、夫はやっと気がついたという。

そして、震える手で、胸のあたりを指さす。おかみさんがのぞくと、大きな蛇が胸に巻き付いて鎌首をもたげているのだった。おかみさんは急いで奉書紙に鉄漿をたっぷりと染み込ませ、蛇の首をつかんだ。すると蛇はばらばらと四方に飛び散ったそうな。

戦国時代、里見氏の一族が、敵から逃れ最後に入水して果てたのが、江戸川の矢切のあたりだという。この人たちの怨念が蛇となって、川を荒らすものからその場を守ろうとしていたのではないか。

葛飾区児童館職員研究会
『葛飾のむかし話』より要約

かの有名な矢切の渡しあたりの話。里見氏が敗れた戦というのは第二次国府台合戦のことで、矢切あたりが主戦場であった。その怨念が蛇と化したという話なのだけれど、そこはさて置く。

重要な点は、おかみさんがその蛇を退治するべく「奉書紙に〝おはぐろ〟をたっぷりしみこませ、へびの首をしっかりとつかまえて」いるところだ。竜蛇が鉄を嫌うという俗信から、鉄漿をつけるというのも蛇の気を避ける呪術なのじゃないか、と吉野裕子女史はいったが、それを実行している事例だ。