昔、金谷に美しい娘がいたが、平家の落人という家柄を慮って、両親はなかなか縁談を決められないでいた。そうしたある夜から、娘のもとに一人の若者が通うようになった。心配した親たちも、若者の立派な気品にほだされ、はやくその名を尋ねるよう娘に勧めた。
しかし、若者は決してその名を教えようとはしなかった。そこで、親たちは今夜若者の着物の裾に糸を通した木綿針をつけるよういった。翌朝それを追ってお住まいを訪ねよう、と。そして夜が来て若者が来たが、その夜は大嵐になり、驚いた若者も早くに帰ってしまった。
翌朝。娘は心を躍らせ、糸のあとを辿っていった。するとそれは村を外れ谷を越えて、山奥の洞穴に入っていくのだった。不思議に思いながら娘が洞穴を覗くと、そこには胸に木綿針を刺して死んでいる蛇の姿があった。娘は通ってきていたのは蛇であったと気付き、悲しみに涙が止まらなかった。
それから、娘は家に帰ると、蛇の胸に刺さっていた木綿針を使うのをやめ、銀で針を作り、独りひっそりと縫物をして暮らしたということだ。
筋自体は金谷の伝説といえるのかどうか微妙なところだが、平家の落人という具体的な話がでている。ともあれ、蛇聟の話として、それを邪なものとして排除する一方の話とは一線を画する筋と幕であるといえる。
蛇を退治しその難を逃れるモチーフとして機能する「針糸」にしても、ここでは、そうとは知らず非道なことをしてしまった、というニュアンスとなっている。そもそも、その話型の本邦の最古例である三輪の神の話でも、それで蛇を退治するというものではなかった。
同じく富津にはまた、人の娘との間に子を成し、その子の見えぬ目を開けてやる蛇(弁天さま)の話もあり、これも邪な蛇という蛇聟ではない(「弁天様と子供」)。
果たしてこの独り銀の針で縫物を続ける巫女の末裔のような娘は、正しく古代の民の残存なのだろうか。あるいは物語が先祖返りして生み出したイメージなのだろうか。この系統の話が伝わる土地というのは殊に貴重である。