承応年間のこと。権現山に大蛇がおり、主といわれたが、時折村を荒らした。ある日、志筑藩主の三男保親という武勇に優れた若武者が、鷹狩りの折に権現山でこの大蛇に出くわした。保親は、これが村を困らせるという大蛇か、と自慢の太刀で一刀に切りつけたところ、天候激変し、やむなく館に戻った。
ところが、その暮れから保親は蛇の毒気にあたったのか発熱した。その後も館に火災が起こるなど異変が相次ぎ、これは大蛇の祟りに相違ない、ということになった。それで太刀を八幡に奉納したところ、保親の体も本復し、城内に異変も起こらなくなった。この太刀は大蛇丸と呼ばれ、戦前まで氏子総代が代々申し受けて管理をしていたという。
初代志築藩主本堂茂親の子、保親の話。八幡神社は中志築(しづく)の八幡神社かと思う。本堂家は十二代後の廃藩置県まで領主を保ったので、祟りはおさまったといえるだろう。権現山はそこから西の石岡との境にある。
大蛇の祟り、という枚挙にいとまない話ではあるが、少々気になる点がある。大蛇を斬った太刀を大蛇丸というのはいいとして、こういった場合、異変を起こしたのが大蛇の祟りなのかというとそうでもない例もある、という点だ。
そもそも、蛇を斬って祟られたなら蛇を祀るだろう。太刀を奉納した、という点が引っ掛かる。那須の塩原は「稚児が淵」では、家宝の名刀が蛇を制しているが、その後家に災難を起こしたのはその刀であるとして、刀は奉納された。
また、蛇の名をもつ刀は、確かに蛇を斬った刀であることも多いが、一方で刀自体が蛇と化すという話を持つ場合もままある。信州佐久は小諸の淡路守の刀は、名を蛇とは言わぬものの、祟りを起こすと奉納された(「淡路屋敷の宝刀」)。
どうもこの志築の太刀も、太刀のほうに奉納される因があったのじゃないかという感触のある話だ(この筋でこの題になるか、というのもある)。よくある大蛇の祟りの話、で片付けずに、少々気にしておきたい。