乙女淵とか御前淵とか呼ばれるところに、昔大家の娘さんが紅花を摘みに行き、水鏡を見ていて御前様に魅入られ、淵に引き込まれてしまった。その後、ある男が淵に鉈を落としたので潜ると、その大家の娘さんが機を織っていた。娘はこの機をやるから、このことは誰にもいわないように、すぐに帰ってくれといった。
男が村に帰ると三年が経っていた。貰った布は切っても切ってもなくならない布だった。どこまであるのかとほぐしきったら、その途端に男は死んでしまった。盆の十六日はこの淵へ流しばたといって、はたをこしらえて流す。これをしないとケチがつくといって、どんな事があっても行っている。
「鮫川の御前淵」の話。その淵の機織姫の誕生が語られる事例。このような筋を語るところでは、乙女淵と淵を呼ぶようだ。他の色々の類話では、あまり姫の由来は語られないので、あるいはそれを語る限定的な里があるのかもしれない。
この点に関しては、同じくいわき市でも中心部近く、好間川のほうで語られる「蛇がん淵」の伝説と比べておきたい。そちらは蛇聟の嫁となり蛇体となった娘が淵にいる(必ずしも機織姫ではないが)という話で、淵の姫の由来を語るものとして典型的なものとなる。
また、上の話の展開で極めて重要な点は、多くの類話がその淵の機織姫ないし御殿の存在を口外すると死ぬ、という話の流れであるのに対し、もたらされた尽きない機をほぐし切ってしまったことにより不幸が訪れる、というところだ。
もしかしたら、機流しの由来がそこで語られているのかもしれない。もらった機をほぐしてしまったことを糊塗するために、まだ機は尽きていない、と示すために機を流すのではないか。そういった構成を語ることがどのような意味を持っているのかというのは難しいが、逆に言うなら機を尽きさせないこと(織り続けること)がこの淵の神との契約なのだ、というような見方はできようか。