寛治年間桜の咲くころ、八幡太郎義家が、陸奥の清原一族を討つべくこの地を通った。安積の賊を討とうと、逢隈川(阿武隈川)に沿い、福原に来た際、福原水神館の渡辺権太夫が義家を迎えた。義家はこれを喜び白鏑矢を授けたので、水神館は大鏑館と名を変えた。
しかし、この地には農作物を荒らす大蛇がおり、里人にその難儀を聞いた義家は、家来の鎌倉権五郎平景政に退治を命じた。景政は十六だったが、豪胆であったという。
壇を築いて西山から雲に乗りくる大蛇を待ち受けた景政は、雲がいたるや五本の矢を放った。うち一本が大蛇を射抜き、矢と大蛇が福原の地に落ちたという。この矢を祀ったのが鏑矢明神である。
後に、福原の人たちは景政の徳をしのんで、御霊宮に景政を合祀した(豊景神社)。また、放たれた矢の落ちたところはそれぞれに祀られ、
一の矢・竹ノ内(前田沢)・鏑矢明神
二の矢・姉が島(安子ヶ島)・大鏑神社
三の矢・早田村(早稲原)・大鏑神社
四の矢・福原・鏑矢明神
五の矢・舟津・鏑矢明神
となる。