小川原記

青森県三沢市

天武天皇の御宇、橘中納言道忠卿に、姉の玉世姫と妹の勝世姫の娘がいた。ある日、道忠卿は遁世の志を深くし、行方をくらましてしまった。そこで、姉妹は進藤織部・駒沢左京之進という供を連れて、熱田の宮のお告げで遠い北の地にあるという父を捜すことにした。

姉姫と織部、妹姫と左京と二手に分かれて、陸奥の国へと向かった。姉姫が六戸の古馬木山に着いた時、父の声が聞こえた。声を頼りに宿を出ると、水底から声がするので、姉姫は水に入ってしまった。

姫の姿が見えぬので慌て探した織部が大潟の近くに行くと、水中から姉姫が現われた。そして姉姫は、自分はこの沼の主になったといい、父はここより西の小川原の水底竜宮に観世音として在し、妹と左京には北の方へ行くと逢えるでしょう、と告げた。織部はこの言に従い、妹姫を迎えに向かった。この時より、この沼を姉戸の沼というようになった。船を浮べてはならぬという。

妹姫と左京は、小川原に父らしき新宮が現われたこと、娘の玉世の姉戸の沼が出しことなどを道中の噂に聞きながら、北に向かっていた。そして、天満館の鶴ヶ崎という所の漆玉(しったま)の淵を前にした。そこで妹姫は、自分はこの淵の主になろうと思うと左京に告げた。

承った左京は次第を告げに姉戸の沼に向かい、妹姫は漆玉の淵に入った。しかし、この淵には二丈ばかりの鰐鮫の主が居たので、妹姫は大蛇となって、三日三夜にわたって戦った。すると父の道忠卿と老翁が忽然と現われ、鰐鮫を封じてしまった。

この淵が勝世姫の御在所として広くなったのが小川原沼である。その後、左京は姉姫に次第を告げ、そのまま姉戸沼を守る奉行となり、織部は勝世姫に次第を告げ、小川原沼を守るため土着した。父は沼崎という所に祀られ、さらに後は姉妹とも三尊仏としてここに祀られることになった。

『三沢市史』より要約

下北半島の付け根の湖、小川原湖周辺を舞台とする伝説。姉戸沼が現在三沢基地の隣の姉沼になる。沼崎というのは西隣になる東北町の上北町駅辺りか。南側の六戸町の中心部あたりに橘公塚があるという。さらに北側の六ヶ所村もそうなのだが、ぐるっと周辺地域の竜蛇信仰の要となっている伝説でもある。

本文はずっと長大なので、本当に要所のみをつなげて要約した。見てのとおり、貴人が下ってきて神仏として示顕するという本地ものの構成で書かれた縁起なのだが、中世のものとかではなく、文政から弘化の間あたりの成立だろうという。市史は「拙劣で下手」な構成だとにべもない。

さらにはこの姉妹の北行の過程を詳しくした派生伝説などもあり、全貌というのもよく分からない。十和田湖の縁起の「向こうを張った」ものが目指されていたようで、とにかく裾野は広いのだ。そして、そこが重要ともなる。

この縁起によって竜蛇信仰が周辺広まったというよりも、もとから竜蛇信仰が色濃かった土地ゆえにこういった縁起ができたと見た方が良いようなのだ。六ヶ所村では「明神」といったらイコール竜神を指すという塩梅で、村誌にはその特記項もある。それらがまたこの小川原記に結びつけ語られもする。

ちなみに大蛇になっているのは妹姫だけに書かれているが、姉姫の「船を嫌う」というのは「鉄材を使った船を嫌う(丸木舟なら良い)」という、小川原沼にも、あるいは十和田湖の方まで共通する定型だそうで、すなわち姉姫も鉄を嫌う蛇となったのだと見て良いだろう、と市史は見解している。

ともかく、池沼の多い土地だが、それぞれに語られ信仰されていた竜蛇たちが、縁起の姉妹のヌシに集約されたのではないかと見える面がある、ということだ。周辺の一つ一つの社祠の信仰とこの縁起がどう結びついているのか細々と追わねばいけない例といえるだろう。

本州の北の端の大型竜蛇伝説というと八戸から十和田湖の八郎か、と思うところだが、まだその先にこういった大物もいるのだ。