妖怪ノオト
門部:妖怪ノオト
雷様の箱宮
場 所:茨城県水戸市(旧・内原町)黒磯
妖怪名:雷様の箱宮/雷神
水戸市は旧・内原町の黒磯に加茂神社を訪ねた(Googleマップ)。神社巡り編に紹介したように、『常陸国風土記』に見る晡時臥山伝説を考える上で、良く似た『山城国風土記 逸文』に見える賀茂別雷命の話を考えることは重要であり、また晡時臥山とされる現・朝房山の麓に加茂神社があるということも重要である。
晡時臥山伝説の詳細は神社巡り編の最初にあげておいたので参照していただきたい。最後、蛇の子は雷撃を放ちつつ昇天しようとするも瓫を投げつけられ、峰に封じられる。そして、ここ黒磯の加茂神社には「雷様の箱宮」という箱が伝わってきたと言うのだ。
雷様の箱宮:
昔のこと、黒磯村の加茂神社には、雷様の箱宮という雨を降らせる不思議な箱宮がお祭りしてあった。日照りが続いて困ったときには、コイド橋のとこで、その箱宮を台に乗せて、太鼓を叩いて村人たちが踊ると、雷様もうかれて雨を降らせたそうな。この箱宮の蓋は決して開けてはならぬとされていた。
ある時、離れた村が日照りに悩んだ挙げ句、黒磯の箱宮の話を聞きつけ、加茂神社からその箱を持ってきてしまった。しかし、その村の衆は箱宮をどうお祭りしたら良いのか分からない。箱をいじくり回しているうちに箱宮の蓋が外れてしまった。
箱宮の中から、稲光が竜のように空へかけあがるやいなや大嵐となり、恵みの雨どころか田は海のようになり、作物は皆流されてしまった。これは天罰と慌てて加茂神社に箱宮を戻し、次第を聞いた黒磯の村の年寄りたちが箱宮を囲み一心に〝光明遍照十方世界念佛衆生攝取不捨〟の念仏を唱えると、ようやく雨が上がった。
その後も箱宮は何度かさらわれたり戻されたりをしたそうな。お年寄りたちが唱えた念仏は、いつの頃からか、五か村念仏とよばれるようになって、今でも続いている。
晡時臥山伝説を考える上でこれはどえらい話である。が、今の所この話に言及したものを見ない。
常陸は雨乞いといったら雷神さんにするもので、石岡の竜神山・伊弉冊命にまつわる八雷神を祀る桜川の加波山・同桜川の鴨大神御子神主玉神社・水戸の別雷皇太神……と大神社が目白押しなのだが、この加茂神社は無名ながら非常に重要な伝承を持つ社と言えるだろう。
もっとも「開けてはならぬ雨乞いの箱」は常陸の範囲でも他に聞こえ、どうも中には獅子舞の頭のような木像が入っていたりするらしい。そういったこともあるので直ちにこの加茂神社箱宮の伝承をもって晡時臥山伝説の片岡の社である、ともいかない。これもまた広く同様の民俗を見聞していって、再度振り返って検討すべき事項であろう。
紋三郎稲荷
場 所:茨城県笠間市/福島県白川郡棚倉町
妖怪名:紋三郎稲荷
日本三大稲荷の一、笠間稲荷は落語好きの間では「紋三郎稲荷」の名の方で通っている。「紋三郎稲荷」という噺があるのだ。江戸で笠間稲荷が祀られたりしているのもここからだろうか。もっとも、この噺では実は笠間稲荷のお狐さんは出て来ないで人間が稲荷狐のふりをするという筋なのだが。しかし、そこで語られる「紋三郎様」こそ笠間稲荷のお狐たちの頭領であり、その紋三郎稲荷には次のような話が伝えられている。
昔奥州棚倉の城主阿倍某がおり、鷹狩りを好み、たくさんの鷹を飼っていたが、ある日そのうちの一羽が姿を消してしまう。これは狐の仕業と大規模な野狐狩りをすることになった。するとその夜城主の枕許に笠間の紋三郎を名乗る老爺が立ち、狐狩りを三日延ばしてほしいと懇願する。
城主は不思議に思い言われたとおりに狩りを延ばすと、三日目の朝、玄関先に消えた鷹が戻って来ており、隣りに老いた狐が倒れていた。城主は驚き笠間に紋三郎を探したが、その様な人物は居らず、笠間稲荷の異称が紋三郎稲荷であることが分かった。以降棚倉阿倍家ではこの笠間稲荷を城内で厚く崇敬したという。
阿倍氏が棚倉(福島県)を統治したのは幕末の数年のことだから、その辺りの話だろう。このような話は「稲荷狐」に暗示される一派(修験勢力など)が、その殿様家なり土地に関与した、という実際のできごとの喩え話なんじゃないかと思われる節もあり、歴史的な動向にも関係して来る可能性もある。
それはともかく、これはよくある伝説と言えばそうなのだが、常中辺りは「イヅナ・オサキ」の系統の「狐筋」が避けられた土地で、お狐さんがこのように「殿様に崇敬される」というのは珍しい。憑き物筋としての狐を畏れていた土地が、幕末日本三大稲荷を擁すまでに変化したのは何故だろう。紋三郎稲荷の話は、この地方のそのような「狐」への視線を辿った上で、もう一度振り返って検討する話となるだろう。
茨城童子
場 所:茨城県石岡市竜神山
妖怪名:茨城童子/茨木童子/酒呑童子
京の大江山の酒呑童子には茨木童子という家来がおる。渡辺綱の名刀・髭切で腕を斬られるのはこの茨木童子だ。こちらは有名な話なのでさておくが、この茨木童子、よく間違って茨城童子と書かれる。んが、茨城童子、実は常陸におるのだ(笑)。茨城県石岡市の竜神山はあれこれと怪異の語られる神山であったが、茨城童子もここを住処としていたと言う。
大昔この山中に大江山酒呑童子のけん族で、茨城童子という怖ろしい鬼が住んでおり、時折村里へ出ては人をさらい、荒らすこと度々で、里人は大変不安な日々を送っていた。ところが或る日、西方から源頼光のような強勇な者が征伐にくるという噂が立った。これを聞いた茨城童子は「イヤこれはたまらん、百計逃げるにしかず」とばかり一目散に鹿島方面へ逃げ去ったという。その時この山の西方三角形の山をとび越えて行った。これを鬼越山と呼ぶ。茨木万福寺側の畑地には「茨城童子巾着石」という伝説の石がある。
常陸は茨城の国なので茨城童子となったのだろう。いま竜神山の西の鬼越山というのがどこかは分からない。万福寺は石岡駅の南側の字茨城にある万福寺のことだろう。しかしこの話、西国の酒呑童子譚の流入というだけでは中々すまない側面がある。
常北町や友部町の神社巡りの際にも紹介したが、常陸は風土記にもこの土地にもとから住んでいた民と、西からやってきた人々との摩擦の多く語られる所である。簡単に言ったらヤマト(プレヤマト) vs 蝦夷という土地だった、ということだ。風土記ではヤマト(プレヤマト)側の圧勝に描かれるが、実際はそんなことはなく、何世紀も様々な形をとって摩擦は続いていただろう。常陸の「鬼」の伝承にはその記憶が残っている可能性が高い。
竜神山の茨城童子も山中に潜み続けた現地の民の末だったかもしれない。これより北の蝦夷の民を辿る道筋の発端はすでにこの辺りからはじまっているのかもしれない。
手接明神(河童)
場 所:茨城県行方市芹沢/小美玉市
妖怪名:河童/手接明神
行方市旧玉造町のエリアを散策しており、『常陸国風土記』に倭武天皇巡幸の折、舟の舵が折れたので「無梶川」と名づけられたという現・梶無川にやってくると、河童がおった。当日の神社巡りはこちら。
この河童の像のある橋を「手奪(てうばい)橋」という。大体妖怪バカには以上で話の概要がピンと来る(笑)。すなわち、次のような話が伝わっているのだ。
昔、殿様が馬で梶無川までくると、水中から馬のしっぽを引っ張る河童に気づき、思わず刀でそれを切り離し手の部分を持ち帰りました。その夜に河童が現れて涙を流しながら手を返してくれと懇願しました。お礼に先祖より伝わる手接の妙薬を教えるということでようやく手を返してもらいました。
その後しばらくして、ある沢でその河童の死体が見つかり哀れに思った殿様が手厚くそれを弔った場所が手接神社と言われています。 今でもその河童の手形に手を合わせると、手の病気が治るという言い伝えが残っています。
これは小美玉市旧小川町に鎮座する「手接(てつぎ)神社」の由来。梶無川まで小川の殿様が来たのですな。私はまだ小美玉市は未踏なので、こちらを「手接神社:狛犬マニア」様。
しかし実はここ(手奪橋)は、新撰組の芹沢鴨の生家がすぐの所にあるのだけれど(地名も芹沢)、ここの生家の門前に上写真のように「手接明神」の石標が立っていた。もしかしたら、先の話や河童の妙薬は芹沢家にもともと伝わっていたのかもしれない。
霞ヶ浦周辺水だらけで河童の話には事欠かないが、この話は「手の神さま」という面がいずれあれこれ問題となってくる(はず)である。特によく覚えておきたい河童の話だ。
病人田
場 所:茨城県稲敷郡/稲敷市/牛久市/竜ヶ崎市
妖怪名:病人田/泥田坊
妖怪スキーには有名な「泥田坊」というのがおる。一所懸命働いて子孫に田を残した翁がおったが、息子は放蕩で田仕事なんぞしなかったので翁の怨念がその田から化けて出る。
んが、この泥田坊、出典がない。妖怪バカ四天王の一、多田先生などはこれは石燕の創作妖怪であり、新吉原の遊郭を暗に示した言葉遊びの妖怪だろうと言う。だがしかし、私は常陸を巡るうちにそうでもないのじゃないかと思うようになった。
特に霞ヶ浦の南西側、昔の信太郡・稲敷郡/稲敷市/牛久市/竜ヶ崎市の範囲に「病人田(ビョウニンダ)」という怪が頻出するのだ。「怪異・妖怪伝承データベース」で検索するとこの範囲で十一件も引っかかる。これは毎度おなじみ『茨城の民俗』の二十四号に「稲敷の病人田(忌地)伝説」というレポートがあるからなのだが、大まかには皆「そこを耕すと死人が出る・病人が出る・家が焼ける・気狂が出る……」というものである。ここで私は次のようなケースに注目する。
病人田
整理されるまで、馬頭観音石仏が田の端に建っていた田があった。元墓地の跡だという。病人が出ると誰も村内で作る人も居らず、市内、半田町の方が允って作ったが何年もしないで作を止めてしまった。(竜ヶ崎市)
墓地、がキーだ。この辺りの田んぼ地帯にはぽつぽつと下写真のような森や塚がのこされていて、中は墓地か神社である(古墳の場合も多い)。
つまり「祖霊の領域」だ。病人田の怪は、そういった所を田にしちゃイカン、という「病田(ヤミダ)←忌田(イミダ)」の事だったんではないか。もしそこが耕され、祖霊が怒ったらまさに「泥田坊」のようになって化けて出てくるだろう。
そんな連絡があったんじゃないかと霞ヶ浦周辺の田んぼを見ていると思えて来るのである。
毛のおひたる玉
ケサランパサラン
レンタル:wikipedia:画像使用:H840
場 所:茨城県行方市(旧玉造町)
神奈川県小田原市
妖怪名:ケサランパサラン/稲荷/狐
江戸文化年間(刊行)に岡村良通の記した『寓意草』に、「毛のおひたる玉」という一文があるそうな。「怪異・妖怪伝承データベース」の要約によると次のようなものだと言う。
毛のおひたる玉
近頃、常陸国の玉造という所に住む、渡辺長七という男の家に、毛の覆った玉が2つあった。これは狐が持ってきたものだという。硬くて少し黒みがかり、常に暖かいという。
さて、私は以前西相模は小田原市の「五社稲荷神社」に「ケサランパサラン」ではないかと思われる神宝がある、ということを紹介した。
その后、京都伏見稲荷大社への所用のため使者が上京の折、京都市内に於て足に纏る“宝子の玉”を拾い上げ授かりものとして神社に祀り現存しております。一名“お白狐様”と称し四年目毎の御開帳には落毛を魔除として氏子達に頒布しております
おそらくこの玉造の渡辺某の家の「毛の覆った玉」も同様のものではないかと思われる。稲荷神社・稲荷講のもたらしたものかどうかは分からないが、「これは狐が持ってきたものだ」とあるので関係はありそうだ。
今の所玉造周辺の地元資料ではこの話は見ないし、玉造の多くの稲荷社の資料を見ても該当しそうな情報はないので、あるいは現代にまでは伝わらなかったのかもしれないが、何かの拍子に視界を横切る事もあるかもしれない。気に留めておこうと思う。
ダイダラボウ
場 所:茨城県水戸市大足(旧内原町)
茨城県水戸市大串
茨城県石岡市井関代田
妖怪名:ダイダラボッチ/ダイダラボウ
旧内原町牛伏等の南東側は「大足」というが(Googleマップ)、これは「おおだら」と読み、ダイダラボウ、すなわち巨人・ダイダラボッチの事だろうと考えられている。この土地を歩いた神社巡りでは晡時臥山伝説のみをクローズアップして紹介したが、この山に比定される現・朝房山は、ダイダラボウが移動させた山だという伝説も持っているのだ。
昔、山は大足の南西側にあって日を遮り、里は作物ができにくかった。そこでダイダラボウが山を北側に移してくれたので、大足は良く日のあたる土地となった、と言う。周辺の三野輪池などもその時の作業の痕跡だそうな。
さて、古墳とは紀に見る箸墓古墳の記述のように「昼は人が造 り、夜は神が造った」とされたものである。この牛伏周辺の土地が古代多氏にまつわると考えられている古墳の密集地帯である事は紹介した。古墳を夜造る神とはだれか。多分ダイダラボウの伝説も関係するだろう。
さらに、その大足・牛伏に隣接する有賀の鎮守である有賀神社が大洗磯前神社と密接な関係がある事を先の神社巡りレポートの中で紹介しているが、その大洗の西には風土記に遡るダイダラボウ伝説の地大串がある。そして、大洗磯前神社を奉斎したのは多氏の中でも牛伏古墳群を築いた人々だったろうと考えられているのだ(だから有賀神社と縁がある)。『常陸国風土記』に見る大串(大櫛)の伝説も見ておこう。
平津の駅家の西一、二里のところに岡がある。名を大櫛という。上古に人があったが、身体はきわめてたけたかく、からだは小高い丘に居りながら、その手は海浜の大蛤をほじくり出して食った。その食った貝が積もり積もって岡となった。その当時の人は大くじりの意味でいったが、今では大櫛の岡といっている。その[巨人の]踏んだ跡は、長さが三十数歩、巾が二十数歩ある。小便をした穴の直径は二十数歩ほどあるだろう。
こうしてみるとダイダラボウ伝説はあるいは常陸多氏の足跡をたどるための重要なコードとなるかもしれない。そういえば牛伏古墳群には「はに丸タワー」と言う古墳を見下ろす事のできる塔があったが、あるいはあれもダイダラボウの記憶を受け継ぐものだったのかもしれない。
ちなみに先頭にあげた「オオニンギョウ」の写真は「オオスケニンギョウ」「ニンギョサマ・ニンギョウサマ」「オカシマサマ」「オカシマノオオスケ」などと色々に呼ばれる常陸一帯の藁人形(多くはもっと小さい)。
石岡市井関代田(だいた)はその小字の通り「筑波山に腰掛けて霞ヶ浦の水を飲んだダイダラボッチの片足が踏んでいた土地」という伝承を持ち、「オオニンギョウ」もこのダイダラボッチ(ダイダラボウ)の事だとされている。
柏原池の竜女
鳥山石燕:濡女
レンタル:wikipedia:画像使用:W400
場 所:茨城県石岡市
妖怪名:竜女/蛇女/濡女
石岡市竜神山の麓の柏原池に竜神山から来た大蛇が棲みついた話がある。大蛇だったり竜神だったりするが、これが美少女となって現れる。石岡竜神山への神社巡りレポートはこちらへ(「常南行:石岡・阿見」)。
石岡小唄にうたわれた柏原は、竜神山麓の閑静な行楽地である。ここの柏原池には一条の哀話がある。竜神山の竜が美しい娘となって、月明かりの夜な夜なこの池の畔に現われて、散策することを常とした。そのあまりの美しさが話題となり、城中の若侍が彼女を求めて夜の池に行った。
出逢った二人はいつしかぴたりと寄り添うようになった。しばらくして若侍は一管の笛を取り出し、唇を湿らすや天心へも届けよと喨々と吹いた。あやしく妙へにかなでる笛の音は夜の更けるのも知らぬ程であった。
その翌朝、若侍は水の面に死体となって冷たくなっていた。里人はこれを悼み、湖畔に弁天の一祠を建てた。弁天様のまわりを、息をつかず片足でけんけんして三べん回ると竜が出てくると言い伝えられている。
この話は、実は少しおかしい。若侍を弔って弁天祠を建てるというのがまず変だ。そして、この話の型というのは竜蛇の娘があたり一帯を泥の海と化して昇天することを笛を吹く男に告げ、他言をしたら……というのが一般に見られるものである。
そして、死を厭わずそれを告げた男が死に、村人たちが結託して竜蛇を鉄気の杭などで封じ、蛇の祟りを鎮めるために弁天祠が建てられる……ものなのだ。あるいはここもそういった元話が変型して伝わったのかもしれない。
ところで残念なことに今の柏原池には弁天祠はなかった。あったら必ずや「けんけんで三べん回って」しまったことだろう(笑)。
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