龍神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.06

祭 神:海津見命
    吾妻大神
創 建:不詳(明応年間遷座・伝)
例祭日:一月十七日
社 殿:流造/東南東向
住 所:伊東市湯川

『田方神社誌』など

龍神社
龍神社
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伊東線伊東駅から北(やや東)に600mほどのところ。135号線の湯川の交差点から丘側に折れて伊東線の遮断機を渡り、伊東線沿いに熱海方向に歩くと鳥居が見える。伊東の港を見下ろすような高台の斜面に鎮座されている。ネット上の地図ではGoogleマップ・ちず丸共に「熊野神社」と表示されるが、過去この社が熊野神社であったという史料・口承はない。誤りである。江戸期の記録からこの場所は「吾妻の森」とされ、「吾妻の松」という松の下に龍宮・吾妻・稲荷の三祠があったのだと記録されている[資料3]

現在は一宇にまとまり、「龍神社・龍宮社」が本体なのだが、こちらに関する由緒伝承はない。伊豆の漁師は決まって港に「リューゴンサン」という竜宮神社を祀るが、ここもそうだろう。神社由緒としては「吾妻神社」を併せ祀ることがもっぱら語られるところとなる。

昔、日本武尊が東夷征伐の際、相模灘を渡って房州への途中、大暴風雨に逢い航行困難を極めた時、同船していた御妃弟橘姫が「これは海神の祟りなり……」と、荒れ狂う怒涛を鎮める為自ら海中に身を投じて海神に祈った。その時の妃のこうがいがここの浜に漂着したのを漁民が拾い上げ、この龍宮社に奉祀したと伝承されている。

『田方神社誌』より引用

『神社誌』には以上のように書かれている[資料1]。伊東からだと本来の舞台浦賀水道が三浦半島の向こう側で実感が薄れるので相模灘、と書いたのだろうか(普通相模灘とは伊豆半島と三浦半島の間を指す)。嘉永年間の『伊東誌』など江戸期の史料などにはここ伊東に伝わる話も普通に走水でのこととされているが[資料3]

それはともかく、入水した弟橘媛の遺物が流れついた、という伝承が走水を中心に常陸から伊豆の海岸に連なっており、ここ伊東もその一例というわけである。ちなみに一般にはこの伝承の分布範囲は房総半島東側から西相模中郡、とされている[資料5]。が、伊豆半島相模湾岸でも江戸期の記録には多く吾妻祠の類は見える[資料2]。しかし、今、社が現存しているとなると数える程しかない。伊東湯川の伝承と龍神社の現存は貴重な一例なのである。

そして、実は『神社誌』には書かれていないが、吾妻神社は明応年間に遷座されている。ここ伊東市湯川から、現在の伊豆市八幡(地名)の吾妻山へと遷られた……と、言うよりも遷られたので吾妻山となった。つまり、本来的には伊東市湯川の龍神社は「伊豆市の吾妻神社の元宮」という位置づけになるわけだ。伊豆市の吾妻神社は今もある。遷座は明応年間のことと伝わるが、『伊東誌』にその記述があるので引いておこう[資料3]。伊豆市吾妻神社の縁起(宝永元年)によるというが[資料2]、その縁起が現存するのかどうかは調べていない。

しかるを往古村人ニ託して山中へ行まさむ詔せしより今八幡の里へ遷なるべし。伊豆誌に記たれど如何なる訳に而山中へ行たまわんと詔したまいし事は知がたしよし。此神八幡のさとへ遷したもうとて跡宮祠と成たもうにはあらず。平田がいえるごとく是やがて分霊にて矢張ここにも其霊の残坐事知られたり。然るを八幡へ飛びたもうというより此には其神霊のましまさぬ事と心得ば誤なり。

『伊東誌』より引用

村人の一人が神懸かりして、託宣した、ということだろう。遷座(というか分霊なのだと『伊東誌』は主張しているのであるが)の理由は分からないと書いてあるが、私には一応考えがある。これはおそらく山アテに関する話なのだと思う。(後述)。

社歴としては以上のような次第なのだが、最初にも紹介したように龍神社の鎮座する丘は「吾妻の森」と呼ばれた程で、現在の見た目のイメージよりも相当土地の人々の信仰に深く根付いた社であったと思われる。事実、『伊東誌』では、同伊東の式内社久豆弥ノ神社(葛見神社)の三倍以上の紙幅を割いて吾妻神社のことを述べている(内、三分の一は記紀の話の紹介だが)[資料3]。稿を改めて西相模から伊豆半島東部の吾妻社のことはまとめるが、その際にも伊東湯川の吾妻神社は(以下の私見に見るような意味で)重要な役割を果たすことになるだろう。

伊東の港を見下ろす
伊東の港を見下ろす
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参拝記

社頭
社頭
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龍神社へは平成二十三年の三月五日に参拝している。伊東・熱海・湯河原と辿る落ち穂拾いの大回転の一日だった。参拝当時の記録にも「おそらく相模湾の弟橘媛伝説は相当違った視点から見直す必要があると考えている」と書いているが、考えている、と言うよりもむしろこの湯川の龍神社・吾妻神社のロケーションが大きな一撃となってその日その一言を書いている。さらに「これは漁民の山アテの山などへの信仰を弟橘媛伝説が上書きしたものではないか」と書いているが、以下の私見も正にそのことである。まず「山アテ」そのものについて簡単に説明しておこう。

GPSなどなかった昔の漁師は、海上自船の位置を知るために陸に見える目印(となる建物・樹木・山など)を「通して見て」それを知った。当然良好な漁場、岩礁が隠れているなど危険な海域といった「海上の地図」も、陸の目印の関係で記憶することになる。岸近くの丘とその背後にみる大きな山との重なり具合を見るのが代表的な手法なので「山アテ」と言う。伊東の川奈湾の具体的な例が『静岡県史』に紹介されているので引いてみよう[資料4]

川奈の漁師の山アテ
川奈の漁師の山アテ
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川奈ではこの手法を「○○がけ」と言う。例えば図の手石島と川奈崎を結ぶラインを使って位置を知ることを「手石がけ」、鎮守の三島神社を通して見ることを「お宮がけ」などという。小室山と大室山を結ぶ「小室がけ」が端的に「山アテ」であるが、山以外にも沢山の目印によって思いがけない細かさで成り立つ次第だというのが分かるだろう。しかも、上図は川奈崎を基準に見るラインのみであり、他の基準も複数ある。

そして、川奈でも三島神社や姥子神社が実際この目印にされているのだが、今回の伊東の龍神社・吾妻神社もそうではないか、ということなのだ。上に明応年間の伊豆市八幡吾妻山への遷座の話を紹介した。吾妻山は伊東の海からはまるで見えないが、実はこれを結ぶ線上には「大平山」というこの方向周辺での最高地点が存在する。つまり、伊東の漁師が用いた(と思われる)「大平がけ」を辿った信仰上に伊東湯川から伊豆市吾妻山への遷座の話はあるのではないか、ということである。

龍神社と伊豆市吾妻山
龍神社と伊豆市吾妻山
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興味深いことに、この遷座は「冷川への遷座であった」と伝えるものもあることだ[資料2]。『増訂 豆州志稿』などはこれは誤りだろうとしているが、冷川地域は大平山の麓である。もともと大平山そのもの(近く)への遷座があり、伊豆市八幡吾妻山へは再遷座なのではないか。

そこへ持ってきて、伊東湯川の吾妻神社は「吾妻の松」の下にあったと記録されていたのだ。この松はおそらく漁師の目印とされた松のことだろう(「アテ木」などと言う)。下写真は伊東市の南側、賀茂郡東伊豆町伊豆大川の三島神社の社頭だが、このような松があったのだと思われる。

伊豆大川の三島神社の松
伊豆大川の三島神社の松
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このような伊東湯川の吾妻神社への考えがあって、また、これをお手本に各所の吾妻神社・祠の見直しがしていけるのじゃないかと私は考えているのだ。弟橘媛は海神にその身を捧げた姫として海上安全の神とされるのだが、その背後にはこういった山アテに関する具体的な根拠があるのじゃないかと思うのである。

そして、山アテの技術と、目印となる山や大木への信仰は、弟橘媛伝説の成立・敷衍よりも遥かに遡って存在したはずだ。その古い信仰が垣間見えてきたら面白い、と思っているのである。

手水石
手水石
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脚注・資料
[資料1]『田方神社誌』静岡県神社庁(1985)
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『伊東誌』浜野建雄:著(嘉永二年)
[資料4]『静岡県史 資料編23 民俗1』静岡県:編(1989)
[資料5]『日本の神々―神社と聖地 11: 関東』谷川健一:編(2000)

龍神社(伊東市湯川) 2011.09.06

伊豆神社ノオト: