子安神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.13

祭 神:奈疑知命
相 殿:山神社(大山祇命)
    天王社
創 建:不詳(延宝七年再建棟札)
    式内:奈疑知命神社(論社)
例祭日:十月十七日
社 殿:切妻平入/西北西向
住 所:賀茂郡河津町縄地

『河津町の神社』など

山神社・天王社を境内社とするか相殿とするかで各資料異同があるが、地元の方の話だと「手前のお社(本社殿の事)は天王さんだ」との事なので、『静岡縣神社志』にならって相殿とした[資料2]

子安神社
子安神社
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子安神社の上を135号線が走っているが、その付近から神社へ降りて行く事はできない。伊豆急河津駅の方へ700mほどの所から浜へ降りる道が分岐しており、そこを下る。河津駅からはバスが出ているが、条件運休が多い。駅から歩くと一時間半くらいだが、途中歩道が無い所も多く危険であり、お薦めはできない。縄地(なわじ)は公共交通機関でのアクセスの難しい所である。

しかしここは南豆の相模湾側ではもっとも有名な「子安さん」であり、河津はもとより下田の方でも縄地子安神社へ詣でる子安講があった[資料6]

御祭神も基本的に「子安明神」であり、里人の間では「乳の神様」で通っている。神社縁起によると光孝天皇の妃、班子女王(桓武天皇の孫・宇多天皇の生母)であるとされるが[資料3]、実際の信仰上その名が意識されている風はない。また、式内:奈疑知命神社の最有力論社(と言うよりもここ以外名が上がらない)ではあるが、そのような記録・伝承もない。比定の根拠などに関しては後述。

現社地には遷座していると伝わり、旧社地は仲條地区・なぎの杜というところであったという[資料3]。ただし、これが今どこにあたるのかはよく分からない。旧社地の具体的な記録もない。後で述べるように縄地の丘陵地帯は縄地金山として長く掘り続けられた土地であり、坑道や空気抜きのための縦坑が多く、迂闊に踏み入る事のできない所である。調査は難しいだろう。また、その金山の経営を行った大久保長安が子安神社を現社地に遷した、という伝もあるが、現地の聞き取りでは大概の事が「大久保長安がやった」という話になってしまう様だったので、どの程度参考になる話かは分からない。ただし、長安が慶長十二年に奉納した鰐口は現存している[資料3]

乳の神様
乳の神様
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もっとも、遷座以前から子安信仰の中心は現社地の社殿背後の窟を女性器に見立てる事にあったと思われ(上写真)、実際土地でもそう言われている。これを「乳の神様」と言う。神社に対して祭祀の場はもとからこの地にあったという事だろうか。子安信仰の具体的な記録としては……

産婦は子安さまに詣り神に捧げた残りのロウソクを頂いて帰り、産気づくとそれを灯して安産を祈る。それが燃えつきないうちに無事出産するといわれ、それでなるべく短いロウソクを請けて帰ったものである。 産後のお礼詣りには新しいロウソクを献じ、社殿の裏にある乳の神さまに母乳のよく出るようにと、お詣りした習俗があった。子安信仰は特に婦人層に厚く広まり、以前は毎月十五日に地区の婦人たちの子安講がもたれた。

『河津町の神社』より引用

とある。また、この乳の神様に牛乳をかけると母乳がよく出るともされていたようで、間違って本社殿にかけないようにと今でも「ここに牛乳などをこぼさないで下さい」と拝殿に貼り紙がしてある。窟の方にかけられるのも夏場はその牛乳が腐って大変ということで、地元の方々は勘弁していただきたい、という風であったが。

神楽殿
神楽殿
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境内社は今は社地に見えない。山神社・天王社は合祀ということなので本社殿内なのだろう。天王社はまず地域の天神社に合祀され、その天神社が子安神社に合祀されたので、今ここにあわせ祀られているのだが[資料3]、先にも述べたように地元の方の認識ではここは乳の神様=子安さん・本社殿=天王社ということなので表立った顔でもある。山神社は大久保長安が金山経営にあたり、その安全祈願のために勧請したと言う。

その他、神明神社・金毘羅神社・稲荷神社・地神社と資料上は見えるが詳細は不明。地神社の御祭神が野槌命となっているのが金山と絡んで興味深いだろうか[資料2]

社地と縄地の浜
社地と縄地の浜
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さて、では式内:奈疑知命神社に関して。「なぎちのみこと」である。まず、式内社に比定する際の問題点として現社地の立地がある。上写真のようにほぼ浜の高さに社地があり、これは津浪を想定して造営される海浜の古社の通例からすると異例である。この点からも遷座の伝は確かだろうとされる[資料1]

そして旧社地は先述のように「なぎの杜」という場所にあったと伝わり、これは「梛の杜」のことで、梛の木が沢山あったという。これが祭神「なぎち」に由来する場所であったのだろうとされるのが比定の最大の根拠である。また、今の土地名の「縄地(なわじ)」も「なぎち」の転訛であろうとされる。この主張は『増訂 豆州志稿』がもっぱら引かれる所だろうか。

村名縄地ハ、奈疑知ノ転訛ナラム、往昔本村なぎの杜ヨリ現地ニ遷祀スト云、なぎノ称、神名ノ遺レルナル可シ神階帳ニなつひめの明神トアルハなぎち姫ノ省略ニシテちヲつニ転ジタルナラム……

『増訂 豆州志稿』より引用

と、いうことで中世の伊豆国神階帳なつひめの明神でもあろうとしている[資料4]。しかし、ここには問題もあり、奈疑知命が姫神なのかどうかがあまり論じられていない。もとより奈疑知命は伊豆三嶋神話をまとめた通称『三宅記』にも見なく、式神名帳に名のみある神である。

以下私見だが、伊豆三嶋大神の眷属女神はほぼ「ヒメ」を名に持つ(伊古奈比咩命・佐伎多麻比咩命など十柱余り)。私の知る限りそうでないのは阿波命・優波夷命だけではないか。奈疑知命もその特例であったという根拠は、ここが子安の社であり乳の神様という女神を祀ってきたという伝によるのだけれど、乳の神様が奈疑知命の事であるのはなぜかと言うとそれはなつひめの明神だからだ、という具合になりどうにもマッチポンプな話になっている。

梛の木信仰は多く夫婦信仰である。諾冉神と結びついたりもする。そして、実は乳の神様の陰石と対をなす陽石が浜辺にあり、セットで信仰されてきたのだとも土地の人は言うのだ。そうなると「夫婦の宮」であった可能性もある。男神である奈疑知命とその后神、という神祀りがここの本質であったかもしれない訳だ。

北側の隣接地区の式内社は杉桙別命神社と佐々原比咩命神社だが、これは夫婦神であるともされる。また、南側隣接地区の式内社は伊古奈姫比咩(白濱)神社だが、ここは三嶋大神と伊古奈比咩命の夫婦を祀っていた。そう思うとない話ではないだろう。

奈疑知命が奈疑知姫命だったならば、確かに「なつひめの明神」は近くもあるが、そう言い切れる訳ではない、ということは覚えておいた方が良さそうだ。同時に乳の神様(子安さま)が奈疑知命の直接の末なのかどうかも確たる訳ではない、としておいた方が良いだろう。

なお、それが何を意味するのか現状分からないが、ここ縄地の地はなぜか河津の奥、逆川の土地と交流が深かったという。昔は若衆達がそれぞれの祭礼には互いに出張したそうな[資料3]。逆川は式内:布佐乎宜命神社の最有力論社である三島神社の鎮座する土地である。

参拝記

子安神社へは平成二十二年の九月二十三日に参拝している。上でも述べたが、河津駅から縄地へ向う国道135号線は歩道なんかなく、とても危険な行程だった事をよく覚えている。そもそも走っている車はそこを人が歩いているなどという事を想定していない(申し訳ない)。そんな感じである。

社頭
社頭
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しかし、その道行きから見下ろす海は大変な景勝であり、下写真のような奇岩が次々と見られるリアス式海岸である。もっとも縄地を含めこの辺りはもう漁師の方もあまりいないようで、静な海ではあるが。

縄地近くの磯
縄地近くの磯
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特に縄地の集落は現在は完全に農村となっており、「今は漁師はいねぇ」との事であった。細い縄地川を水源として細々と田畑が作られている土地である。公共交通機関もあまりなく、かなり隔絶された土地となっているようだった。

縄地の集落
縄地の集落
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もっとも昔は漁も盛んに行われていたそうで、そもそも縄地の浜を見ても農業をやるより漁師の拠点となるような所ではある。この辺、江戸初期に大久保長安がここに隠し金山を開いて土地を一変させてしまった、ということが大きく影響しており、後はそのあたりの事を述べておこう。

縄地の浜
縄地の浜
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金山奉行として徳川幕府に重用された大久保長安は西伊豆土肥に土肥金山を開いた事でも伊豆に名の響いた人物だが、ここ河津縄地には隠し金山を開いたと言う。これは伝説などではなく、土地のご老人の話では、ご老人が子供の頃はまだトロッコを押す光景が見られたそうな。実際、金山街としても相当な規模となっていたようで、縄地の丘上にある地福音の案内には「当時八千軒の家があり、寺院九ヵ寺があったといわれている」ともある。私が話を聞いたご老人も「昔は下田より栄えておった」と言っていた。今は見る影もないが。

山の神の祠
山の神の祠
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そして、土地が一変したのは大概この大久保長安がそうしたからだ、と土地では語られる。例えば、集落の辻などに見る石祠は昔はサイノカミであったものを長安が鉱山の安全祈願として皆山の神にしてしまった、のだそうな。しかし、今でも祭祀は小正月にどんど焼きとして子どもらが行うというので実質はサイノカミさんなのだろう。

同様に、子安神社も長安が「山神社」の性格を強く持たせるために今の結構に建て替えたのだとされている。土地の方に「この辺りで海に背を向けるような神社は珍しいですね」とたずねてみると「そりゃあ、大久保長安が……」と返ってくる、という具合だった。

当然そのような大規模採掘が行なわれるようになれば、坑道からの水が海に流入し漁どころではなくなる、ということで漁師の拠点としての縄地は終了し、金山としての隆盛が衰退した後は細々とした農村集落だけが残った、ということになるのだろう。この土地の神祀りの次第を考える上で金山開発による土地の激変は大変重要なのである。

しかし、長安以前の漁師の拠点であったろう縄地の海の様子は今はもうよく分からない。子安神社が、あるいは奈疑知命神社がどのようなものであったかを考える上では、そこが大変重要だと思うが、難しい話となるだろう。

なお余談だが、大久保長安とバテレンとの繋がりというものがあるそうで、ここ縄地にも金山隆盛時、その労務者達の中に相当数の隠れキリシタン達がいたという。そして、ここ子安明神を聖母マリアに擬して拝んでいたという伝承がある[資料3]。彼らは何を祈ったのだろうか。そう思いながら窟の写真を再度見ると、何とも不思議な気持ちになってくる。

脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部(1981)
[資料2]『静岡縣神社志』静岡県郷土研究協会:編(1941)
[資料3]『河津町の神社』河津町教育委員会(1984)
[資料4]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料5]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料6]『伊豆 下田』地方史研究所:編(1962)

子安神社(賀茂郡河津町縄地) 2011.09.13

伊豆神社ノオト: