三島神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.15

祭 神:溝樴姫命
合 祀:石井山神社(大山祇命)
    加納八幡神社(譽田別命)
    上賀茂田村神社(田村神・瓊々杵尊)
    貴船神社(高龗神)
    黄宮(八雲)神社(素戔鳴命)
創 建:不詳(慶長二年再建棟札)
    式内:加毛神社二座(論社)
例祭日:十月三十日
社 殿:流造/南東向
住 所:賀茂郡南伊豆町二条

『静岡縣神社志』など

住所の「南伊豆町二条(二條)」について、『静岡縣神社志』をはじめ、静岡県神社庁サイト、境内の由緒書きも二条なのだが、地図上明らかに加納であり、また、『増訂 豆州志稿』に加納村、比較的新しい資料である『南伊豆町の神社棟札』(1994)でも加納・三島神社となっている。飛び地で二条であるか、かつて加納・石井を含めて皆二条だったのかと思うが、いずれにしても現住所は加納となるのかもしれない。二条から加納への遷座などということではまったくない。

また、例祭日は『静岡縣神社誌』に「十月三十日」とあるが、現在の社頭掲示には「十一月二日」とあったので、社頭掲示の方にならった。

三島神社
三島神社
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青野川を遡り、二条川の流入する分岐からさらに青野川の方を北上すると両脇から山野の迫った所があり、その西側の森に鎮座される。南側の下賀茂温泉一帯のはずれ、という所だろうか。下田駅から下賀茂まではそこそこバスが出ている。南伊豆町の役場や図書館もある地域なので、のどかな所ではあるが町の中心地区ではあるのだろうか。

しかし今はのどかな所なのだが、古代においてここ加納に隣接する下賀茂から手石湾の方にかけては「日詰遺跡」という弥生時代から平安時代にかけての大形複合遺跡のあるところ。日詰遺跡は祭祀遺跡としても重視され、古代に東進した賀茂氏が伊豆半島における拠点とした「賀茂郷」の中心ではないか、と見られている[資料6]

これを反映してか、「伊豆三嶋大神」にまつわる伊豆独自の神格を祀る次第が普通の伊豆の古社の中で、ここ三島神社の御祭神は溝樴姫命(溝咋姫神・三島溝杭姫・玉櫛媛)とされている。溝樴姫命は神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母であり、賀茂氏系の伝承では事代主命の妃、ということになる。この事代主命を祀る東南東2kmほどのところに鎮座される「加畑賀茂神社」とはセットで式内:加毛神社二座となるのではないかとされる。では、先にこの点、式内論社としての三島神社について述べておこう。

本殿覆殿
本殿覆殿
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式内:加毛神社二座の本座一座を加畑賀茂神社に比定することは諸本一致するところであり、まず確定社だとして良いだろう。伊豆三嶋大神ではなく、西国の三島神の分霊東遷であると伝えており、伊豆三嶋信仰を考える上で大変重要である。『式内社調査報告』では『足柄縣神社調書』の記録として以下の一文を引いている[資料1]

往古三嶋大神予州ヨリ豆州沖会神津島ヘ御渡海被為、往古ヨリ加畠之神社ヘ御上陸相成、稲生沢武山ノ神ト当鎮座ノ神ト両神ニテ三嶋大神ヲ守護シ、田方郡深沢ニ至リ夫ヨリ三嶋ノ社地ヘ御供致シ候由云伝

『式内社調査報告』より引用

このように、伊予の大三島・大山祇神社の分霊東遷であるとの伝(見解?)を記録している。加畑賀茂神社に関しては「稲生沢武山ノ神ト当鎮座ノ神ト両神ニテ三嶋大神ヲ守護シ」とあり、随神の風である。

式内:加毛神社は当初この加畑の一社だったと考えられ、いつかは分からないが、ここから后神を分祀し、二座となったのが二条三島神社・溝樴姫命だとされるのだが、一方この三島神社の社伝には以下のようにあったと『伊豆國式社攷證』が引かれている[資料1]

斯テ社伝ニ三嶋大神溝樴姫命二柱神代ニ御船ニ乗テ、妻浦ノ湊ニ着セ玉ヒ、次ニ当地ニ遷座シタマヒ、次ニ三嶋ヘ遷リ給フト伝ヘルハ、所因有説ニテ、速クヨリ式ニ所載摂津国嶋下郡三嶋鴨神社溝樴神社二社ハ三嶋大神ト座、事代主命八尋熊鰐ト成テ、津国三嶋溝樴姫命ニ通ヒ給ヘル故事ニヨリテ……

『式内社調査報告』より引用

こちらでは摂津三嶋鴨神社の分霊東遷だと言っていることになるだろう。しかし、いずれも明治期の記録であり、同時期の三島大社祭神の同定の影響が大きいのではないかとも考えられる。そもそも加畑明神は江戸期は別雷命を祀るとされていた[資料1][資料2]。これが事代主命に改められたのは明らかに三島大社の祭神の決定にならってのことだろう。二条の方に溝樴姫命の名が出るのはさらにその後、と考える方が自然である。

さて、これらの話の妥当性というのも難しいのだが、現在具体的に伝わっている物・話の方をあわせて見ておこう。まず、棟札資料によると二条三島神社は近世一貫して「三嶋大明神」である。溝樴姫命ないし姫神の祭祀を思わせる物はまったくない[資料5]。そして、慶長二年(最古)の棟札にも「土(主)水助■」の記述があるが、これは鈴木主水助吉隆という人物のことであり、現在社頭にもこう記されている。

由緒
創建年月不詳なれとも往古石井加納二條を久田村と称せし頃鈴木主水助なる者勧請すと云ひ伝ふ……

社頭掲示より引用

鈴木主水助は中世初頭、建久六年に源義経の家臣として当地に八幡を勧請したとある人で、また彼が「伊予守」であったことも注目される。場合によっては伊予大三島をこの鈴木主水助が勧請したのだ、という線でかつては落ち着いていたのかもしれない。ちなみに今でもここ二条三島神社の鍵取家は鈴木家であり、主水助の末裔であるそうな[資料1]

以上、ここは式内:加毛神社二座の一座であり、賀茂三島の社であり、加畑と二条で事代主命と溝樴姫命の夫婦神を祀るのだ、と一般に言われる裏にはこういった次第があるのであり、端的に言えば「よく分からない」。伊予なり三島鴨なりの勧請が古代賀茂氏の時点であった、とはとても言えはしないだろう。現状無理にそのようにまとめて理解する必要はなく、このような断片によるいくつかの可能性を併せ考えておくのが良いのではないかと思う。

石祠
石祠
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合祀されている神社に関して、とくに「黄宮神社(八雲神社)」についても述べておこう。伊豆半島東側から西相模の(多くは)海側に「キノミヤ(来宮・木宮など)」と称する神社が点在しており、ここ黄宮神社もそうであったと思われる。いくつかのキノミヤでは木の神五十猛命を祀るが、この親神としてここでは素戔鳴命とされたのだろうか。

「黄宮」という表記はキノミヤの中でも異例だが、三島神社に残されている享保の棟札資料には「来宮大明神」とあり、この札に過去の履歴も書かれているのだが、古くは嘉吉二年再興ともあるので、少なくともその間は普通に「来宮」だったのだろう[資料5]。なぜこれが「黄宮」と表記されるようになったのかは分からない。

黄宮神社にはかつて厳格かつ古風な祭祀があったと伝わり、この模様が記録されているので引いておこう[資料3][資料4]

合祀社黄宮は、もと本社の西少許を距てた矢崎に座したが、ここに古式の祭祀があつた、毎年十月朔日より十五日まで、社人酒を戒めて潔齋甚だ厳重である。十一日に幣を岩崎温泉の上に立て、翌日温泉に投ずる、之をオハキといふ、十二日欝蕉(はまゆふ)を入間ノ浜に取り、柯葉(しひ)を大倉山に採り、十四日夜神酒を併せ惠酌保宇(ゑしやくほう)といふ祠に献し、祭主、社人皆神酒を飲み始めて酒禁を弛べる、翌旦祭主神歌を謳ふに節も詞も古雅なものであつたといふ、その神歌といふは

一、御狩する大倉の山の柯が葉をハレヨ、柯が葉ををるとハレ、見つ、今年こそ、するべの稲を、ハレ、磯城に積まうよ。

二、御狩する、賀茂が岩殿、妻良(めら)めうらの、ハレヨ、めらんの浦、みよん(三穂)が崎、わたる隼、鳥取らば、ハレヨ、鳥取らば、おきん(沖)の島、玉藻よるべし、波けさもよるべし。

三、此殿の閨のさすがね(鏆)、三声鳴る、三声鳴るは君か、此身の熟睡(うつら)頃、ハレヨ、うつら頃、御前の端(つめ)、つめなる鶏ぞうたふべき。

四、此の夜はあけか月夜か、あけならば、ハレヨ、あけならば、予(まろ)もまゐらう、あす、明日もまゐらう。

(この項南豆神祇誌に拠る)

『静岡縣神社志』より引用

二条三島神社の社頭には伊豆半島でも屈指の樹齢千年以上とされる大楠二株が「夫婦楠」としてある。キノミヤはまた「木の宮」として、それぞれ大樹を祀る共通点もあるので、あるいはそれを反映しているのかもしれない。

夫婦楠
夫婦楠
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その他、上賀茂田村神社(田村神・瓊々杵尊)・石井山神社(大山祇命)・加納八幡神社(譽田別命)・貴船神社(高龗神)が近代になって合祀されている(田村神社のみもとからの境内社と伝わる)[資料3]。八幡神社が「○正八幡……是レ源三位勧請三座ノ一也」などとあり[資料2]、先の鈴木主水助云々の伝の八幡だと思われるが、委細は不明である。     

狛犬
狛犬
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参拝記

二条三島神社へは平成二十三年の一月二十二日に参拝している。下賀茂の加畑賀茂神社を起点に次がここ二条だった。そこから青野の方へ、また入間の方へとぐるっと回っている。下賀茂や加納は青野川を下るとすぐ手石の河口部になるので、神祀りもそこからあがってきたように見えるが、上に見るように話としては妻良や入間の方と繋がりが深い。あるいはその路線を歩いていた日だったかもしれない。

社頭
社頭
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とにかく写真の大楠がかなり遠くから見え、その偉容がまず第一印象にして決定的な印象となる。熱海来宮、伊東葛見、河津来宮の楠と比べても遜色なく、むしろ二株ということでそれらにないものすごい枝振りの見られる所と言えるだろう。

境内の土俵
境内の土俵
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今のお祭の様子などは現状よく分からないのだけれど、加畑賀茂神社とこちらに土俵の設えがあったのが印象に残っている。相撲の奉納はここから上賀茂や稲生沢川流域に見られた。あるいはそちらの方との民俗的な繋がりがあるのかもしれない。

石祠と石棒
石祠と石棒
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境内の石祠に混じって石棒がおかれているのも気になった。いずれ里の辻々に祀られていた、ということなのだろうが、この辺りも海側というより山側稲生沢流域の感じに近いかもしれない。

あとは今後の課題になるだろう点を少し述べておこう。上のあれこれにもここの三嶋大神が妻浦(妻良・めら)に上陸されて云々という話があったが、『増訂 豆州志稿』もこの点「妻浦村ニモ此伝アリ」と述べている。その妻良側の伝承とは南伊豆町妻良の三島神社(式内:大津徃命神社:論社)と対岸子浦の八幡神社(式内:伊波久良和氣命神社:論社)なのだけれど、こちらに祀られるのは伊豆三嶋信仰独自の神格であり、悩ましい。伊波久良和氣命は神津島阿波命の御子神物忌奈命のまたの名であるなどと伝えており[資料2]、そうなると大三島や三島鴨からの分霊東遷の話はどうなるのだ、ということにもなる。もっとも、下賀茂・二条の方の話と妻良の話が繋がるのなら、だが。

また、南豆にもと祀られていた三嶋大神が田方へ遷座する件は下田柿崎の方でも同じような話が伝承していた、ともある[資料2]。この辺下田白濱から妻浦にかけて、どのような原型がどのように変化して伝わっていたのか、中々難しくもあり、また、面白い話だと言えよう。

脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『静岡縣神社志』静岡県郷土研究協会:編(1941)
[資料4]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料5]『南伊豆町の神社棟札』南伊豆町教育委員会:編(1994)
[資料6]『海と列島文化7 黒潮の道』網野善彦:編 小学館(1991)

三島神社(賀茂郡南伊豆町二条・加納) 2011.09.15

伊豆神社ノオト: