三島神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.08.22

祭 神:不佐乎宜命
創 建:不詳(伝・元亀年間)
    式内:不佐乎宜命神社(論社)
例祭日:十月十五日
社 殿:寄棟造に向拝/南南西向
住 所:賀茂郡河津町川津筏場上佐ヶ野

『河津町の神社 』河津町教育委員会

三島神社
三島神社
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ネット上のゼンリン系の地図には見えず、ちず丸や国土地理院地図では鳥居マークはあるが道はなく、という具合ではあるが、上佐ヶ野の集落に入ると各所に標識が立っているので迷う心配はあまりないだろう。車でなければ、伊東線河津駅から河津川沿いを七滝へ向うバスに乗り、下佐ヶ野辺りで降りてそこから徒歩となる。1時間はかからないが登りなのでそれなりに歩きではある。河津川に注ぐ佐ヶ野川の渓流を眼下に望む地に鎮座する神社である。

式内論社として名があがる神社ではあるが、基本的に山間の長閑な土地の鎮守さんである。春に河津固有種の河津桜が谷を彩る景色が有名で、人が集まる。この土地が騒がしくなるのはその頃だけだろう。

境内
境内
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神社由緒は以下に述べるが、記録に残る以前からこの土地は神祀りの場としてあったと思われる。ここより佐ヶ野川上流部は修験者達の行場として聞こえたと見え、石仏群などもある。ここ三島神社の社地も社殿向って左側に大岩、また社伝後背にも大岩があり、川畔の磐座祭祀の場であったように見える。

社殿向って左側の大岩
社殿向って左側の大岩
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社殿後背の大岩
社殿後背の大岩
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さて、当三島神社に関しては式内論社として名があがるものの、背景には『式内社調査報告』にもない伝承があり、やや煩雑となるがその辺りのことを詳しく述べよう。

ここが式内:不佐乎宜命神社である、とは『式内社調査報告』によると『特選神名牒』(明治九年)に紹介されているそうだが、特にその根拠はない。おそらく以下に見る同河津町逆川の三島神社とここ上佐ヶ野三島神社の関係から紹介されたものと思う。そういうわけなので、不佐乎宜命神社に関して詳しくは逆川の三島神社の項で述べることとし、ここではもっぱら実際土地に伝わる神社の由緒を詳しく述べておこう。

まず、下の図の土地を把握しておこう。

境内
周辺地図
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当上佐ヶ野三島神社は天文三年(1534)に遡る古い棟札を有するが、「小川大明神御宝殿葺替」の札であり、以降も「三嶋大明神」と称え、もとより不佐乎宜命を祀るという記録も口承もない。「小川大明神」とは上図中央、河津川畔の川津筏場小川、今「三養院」という寺院のある辺りに鎮座していたという三島大明神社のことである。『河津町の神社 』には次のようにある。

由緒・伝承:
創立年代は不詳である。もと筏場小川に鎮座し、三島大明神と称えたが、元亀年間(一五七〇〜七三)今の地に遷座して社名を三島神社と改めたものである。

河津町教育委員会『河津町の神社 』より引用

また、同河津町逆川三島神社の項に次のようにある。

この神社(逆川三島神社)はもとは筏場三養院下の小川の三島神社を逆川と上佐ヶ野に分けて移し祀ったと伝承されている。

河津町教育委員会『河津町の神社 』より引用

これは上佐ヶ野で語られる口承とも大体(時期的に)一致する。そこでは……

(延命寺の項)小田原城が戦いに敗れて乗っ取られた時、小田原城主の弟が上佐ヶ野に逃れてきた。そして山田という姓を名乗って上佐ヶ野を開墾し、1513年に延命堂、後の延命寺を建てた。
(三島神社の項)延命寺を建てた山田喜左衛門が、横溝をつくって上佐ヶ野を開拓する時に佐ヶ野川畔に祀ったといわれている。大永七年(1527年)の棟札を持つ古い神寺である。

上佐ヶ野観光案内板より引用

一世代程ズレがあるが、大まかには、小田原が大森氏〜北条氏へと移る動き(16C初頭)の余波がここ河津まであって、上佐ヶ野が開墾されることとなり、小川三島大明神が上佐ヶ野と逆川に分祀されることとなった、ということになるだろう。同時期、双方に同族(『河津町の神社』では古山氏譜とある)が移り住んだという。

この辺りの事情は『式内調査報告』などにまったく見ないので、注意が必要だ。いずれにしても上佐ヶ野・逆川の三島神社は同根の神社である、という口承があって、逆川三島神社が不佐乎宜命神社であるというなら上佐ヶ野もそうだろう、ということで論社として名が上がった、ということになるだろう。面倒くさい話ではあるが、これを受けて実際御祭神が不佐乎宜命とされてしまったのだからあだやおろそかにはできない。

しかし、詳しくは逆川三島神社の項で述べるが、逆川が不佐乎宜命神社であるのは、小川三島大明神の分裂遷座以前から逆川の地に祀られていたと考えられる「若宮」の存在故である。ということは上に述べた上佐ヶ野と逆川の縁に不佐乎宜命を関連づけるのはあたらない。ここ上佐ヶ野三島神社は「小川三島大明神の末」としておくのが妥当だろう。無論、今はなき小川三島大明神そのものが三嶋大神に連なる式内論社クラスの神社であった可能性は高いが、それはまた別の話である。

佐ヶ野川
佐ヶ野川
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参拝記

三島神社へは平成二十二年の十月九日に参拝している。伊東線河津駅からバスで下佐ヶ野まで来て、周辺上佐ヶ野から七滝の方まで歩いた。最終的に雨で撤退となるような日だったので、どこも雨に濡れた緑が記憶に残る一日だった。

参道入口の鳥居
参道入口の鳥居
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ちょうど周辺各地が一斉に秋祭りを行う直前の週で、三島神社さんについた時も土地の爺ちゃんが拝殿前の注連縄を取りかえている時だった。だから本当は写真の拝殿前には注連縄がはられている。色々お話を聞いてみると、まず「ここの神さんは、あれだ、あっちの白浜さんとおんなじやぞ」と、なんでこんな山奥に、と不思議がられた。物好きで申し訳ない(笑)。

しかし、これは面白い話で、土地の人はこの神社の御祭神は「三島大明神」だと思っているわけであるが、その本社を三島市の三島大社でなく白浜の伊古奈比咩命神社(白濱神社)だと思っているということだ。近いから、ということもあるが、あるいは南豆には三島の本社は白浜だという感覚がずっと生きてきたのかもしれない。

明治四十年の狛犬
明治四十年の狛犬
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そう、ここはずっと「三島大明神」の社だったのだ。御神職がいるわけでもなく、村持ち氏子持ちの神社だ。この神社を祀り、代々お手入れをされた来た方達は不佐乎宜命なんぞ知らんのである。しかし、上に述べたような経緯で御祭神は不佐乎宜命となってしまった。これは大変重要な問題である。

「学者のセンセイがよ、神さまを替えちまったんだよ……」とは別の土地で聞いた台詞だが、そう言った方は実にやるせない表情をされていた。そんなことがよくあるのだ。こういう場に多く立ち会うと「一体誰のための神さまなのか……」と思う。

明治四十年の狛犬
明治四十年の狛犬
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学問は伝統を復し、正したのだろうか。それとも土地の伝統を壊したのだろうか。不佐乎宜命神社である妥当性が疑問となればそう思うのもひとしおではある。

上佐ヶ野から下って来る途中で、道脇の石垣に本当に当たり前のように陰陽の石神さんが祀られていた。そういう土地なのだ。その土地の人々がその土地の「本当の神さま」を祀る、そこに余所者の介入する余地が何学だろうがあるかは疑問だ。

もっともこんな石神さんからしてみたら近現代の小僧達のあれやこれやのさえずりも「たかだか百年、みじけぇみじけぇ」という、微笑ましい一エピソードに過ぎないのかもしれないが。

佐ヶ野の石神
佐ヶ野の石神
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三島神社(賀茂郡河津町川津筏場上佐ヶ野) 2011.08.22

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