白山神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.10.17

伊豆山神社末社
祭 神:伊豆大神奇魂
    菊理媛命
創 建:天平元年・伝
例祭日:八月七日
社 殿:
住 所:熱海市伊豆山

神社掲示より

白山神社
白山神社
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熱海伊豆山神社の末社である。本社殿社地にはなく、その後背の山中、伊豆山権現元宮と伝わる本宮神社(奥の院)へと登る山道の途中に鎮座される。もう少し登った先が「子恋の森公園」として整備されているが、その手前となる。伊豆山神社・伊豆山権現について書かれた各種資料にもこの白山神社について詳しく検討しているものが無く、伊豆山神社境内の由緒書きのみが詳しい。まずはそれを全文掲載しよう。

白山神社
御祭神:伊豆大神奇魂・菊理媛命
例祭日:八月七日
ご由緒:伊豆山記、走湯山記によれば、聖武天皇天平元年夏、東国北条の祭主、伊豆権現に祈願したところ「悪行のなす所、救いに術なし、これ白山の神威を頼むべし」との神託があった。時に猛暑のころであったが、一夜のうちに石蔵谷(白山神社鎮座地)に雪が降り積もり、幾日たっても消えず、病いにある者これをとってなめたところ、病苦たちどころに平癒、よって社を創立せり。古来、病気平癒・厄難消除の神として庶民の信仰が厚い。
なお、社殿はこれより奥、山道を登って五百メートル余り、(徒歩約二十分)石蔵谷の岩上に社殿が鎮座する。

神社掲示より

まず、御祭神に関してだが、「伊豆大神奇魂と菊理媛命を祀る」のであるのか、「伊豆大神奇魂が菊理媛命である」のかが判然としない。伊豆山全体の由緒に照らし合わせてみてもどちらでもありうる。無論白山の神が菊理媛命とされたのは下るので、もとは白山大神というような形で祀っていたのだと思うが、この神格が伊豆山の信仰空間に完全に組込まれたものなのか(後者)、一般的な勧請であるのかで話が少々代わって来るので悩ましい。

鎮座地は先に見たように伊豆山神社本社殿後背の山の中腹となるのだが、この一帯は山腹に巨岩が数多く露出している所であり、これらの大岩が磐座として祀られたものと思われる。由緒にある「石蔵谷」の地名はそのまま磐座の意味だろう。白山神社社殿も大岩の上に鎮座され、さらに社殿後背にも大岩がある。

また、石蔵谷を含んで周辺を「ココイ・コゴイの森(杜)」と称した。古々比・古々井・子恋の字があてられる(以下、古々比の杜とする)。現在は「子恋」をもっぱらに使うが、これは源頼朝と北条政子が伊豆山権現に立てこもって過ごしたことと併せて、縁結び・恋愛成就の森(公園)としての売り文句のようだ。ただし、もとよりこの神域にはヒメ・ヒコ神の結ばれる地であるとの意はある(後述)。

社殿背後の大岩
社殿背後の大岩
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古々比の杜は『枕草子』にも「杜はこごひの杜」と引かれ、当時から名の知れた所であったのだが、火牟須比命神社・小河泉水神社・波夜多麻和氣命神社・伊波例命神社の実に四社もの式内社の鎮座地として名があがる(最有力論社となるのは火牟須比命神社だけだが)。特に火牟須比命が重要であり、『増訂 豆州志稿』は「古々比ノ森ト云モ亦此神ノ一名火之炫毘古(ホノカガヒコ)ノ炫毘ノ転訛ナラム」と主張している。苦しいが。

そもそも伊豆山権現はまず日金山に(上の本宮)、次いでこの古々比の杜に(中の本宮・現本宮神社)、そして現社地(新宮)に遷座したと伝わっているが、概ね日金山は伝説、古々比の杜から現社地への遷座は確かだろうと考えられている。つまり、今の伊豆山神社は里宮のようなものであり、古々比の杜が本来の神域なのだ、ということになる。

さて、その伊豆山の核心である神域になぜ白山神社が鎮座するのかと言うと、先に見た神社の由緒書き以上の史料もなくよく分からない。しかし、古々比の杜とは何なのか、ということをより漠然と眺めてみると、確かに白山神社がここに鎮座するのはうってつけだ、という気もする。この辺りは全面的に私見となるので、下で展開しよう。

参拝記と私見

白山神社の大岩
白山神社の大岩
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伊豆山神社には何度も参拝しているが、このページの白山神社の写真を撮影したのは平成二十二年十月三日の参拝の折である。かねてから狙っていた、伊豆山神社本来の参詣路を辿る(すなわち海際の走湯神社〜伊豆山神社〜白山神社〜奥の院・本宮神社)という行程だった。

そもそも末社である上に、あまり伊豆の信仰に深く関係するとも思えない白山神社なんで、特に注目もせぬまま山道を登って上写真の鳥居が見えた所で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。上記の古々比の杜に関する資料も読んではいたのだが、字面を追うのと実見するのとでは大違いである。この光景を見てここが神域であることが私の中で確定した。

登り口と遥拝所
登り口と遥拝所
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先に順路のことを述べておこう。伊豆山神社本社殿向って右側に資料館があるが、その間に上写真の鳥居があり、ここが登り口である。短い道のりとはいえ山道であり、万人向けではないので白山神社(と本宮神社)の遥拝所もかねている。

参道の山道
参道の山道
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道中はこんななので、それなりの靴を履いて行かないといけない。白山神社までは由緒書きにもあったように20分、健脚なら15分くらいだ。もっとも、実は白山神社のすぐ上には民家が建っており、古々比の杜周辺には宅地が迫っている。公園として整備されている所まで社道が通っているので、白山神社の上に車で行ってちょっと山道を下って参拝、ということも可能だ。複雑な心境ではあるが。

白山神社近くの御神木
白山神社近くの御神木
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白山神社につく少し手前に写真の樹木がある。注連縄が廻されているので御神木だろう。詳しくは伊豆山神社摂社・結明神社(むすび明神)の稿で述べるが、この地の夫婦の神は日金山の大杉より生まれたとされ、樹木信仰にも大きな意味合いがもたされている可能性がある。結明神社は現在下の本社地内に鎮座されているが、元宮となる石祠は白山神社近く、山中の大岩の上にある。

では、この白山神社に関して二つの面から私見を述べよう。ひとつは白山勧請そのものに関してであり、もうひとつは白山であることを離れてより漠然と鎮座地の古々比の杜とはどのような所かという話となる。

この土地の修験に白山信仰がどの時期にどのような影響をもたらしたか、というのはよく分からないのだが、伊豆山権現だけでなく周辺に一連の勧請を思わせる所がある。神奈川県足柄下郡箱根町の箱根への登り口となる箱根湯本の鎮守が白山神社なのだが、この白山神社は天平年間の疱瘡の流行に悩み、加賀白山を勧請したと伝承され、伊豆山神社の白山神社と勧請時期が一致している。

これらの「天平年間聖武天皇の御代」という具体的な時代の妥当性はさて置くとして、箱根湯本は箱根権現への登り口として古来管轄下にあったことは間違いない。要は「箱根権現の白山神社」ということになると思うが、箱根権現と伊豆山権現はおそらくはじめから兄弟権現である。

伊豆山と箱根湯本の白山神社勧請が一連のことだとしたら、いずれかの時代に伊豆−箱根権現が、その信仰の中に白山信仰を組込もうとした、ということを示すかもしれない。先の伊豆山の由緒に「東国北条の祭主」による、とあるように、平末から鎌初にかけてこの二権現を東国総鎮守格へと引きあげた鎌倉幕府−北条時政の意向が考えられる。

さらに、北条氏と縁の深い(おそらくもとは同族)中村党土肥氏の土地、神奈川県足柄下郡湯河原町の五所神社の創始伝承も興味深い。五所神社は湯河原の総鎮守で、北条時政と同じく源頼朝の旗揚げ時に大きな活躍をした中村党土肥実平の守護神である。五所神社社伝によると、湯河原の地は「天智天皇の御代、加賀の住人二見加賀助重行らの手によってこの地方が開拓されたとき土肥郷の総鎮守として祀られ……云々」という来歴なのだと言う。

鎌倉幕府成立以降は土肥と北条は反目していたようだが、熱海と湯河原の土地は同一の信仰空間をもつ地続き、というよりも「海続き」な土地である。五所神社はその後八幡である側面を強くしたので古い時代どのようだったのかは分からないが、主祭神九柱の中に諾冉二柱を含むことから、白山神社であった可能性はある。

伊豆山権現・箱根権現は、頼朝の二所詣の逸話に見られるように、鎌倉幕府、ひいては東国全体の総守護として、由緒・神話が整備されて行った、という面がある。上に見た痕跡は伊豆山神社末社のこの白山神社もその枠組みの中で取り込まれた要素だったのではないか、ということなのだ。

古々比の杜の磐座
古々比の杜の磐座
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続いては古々比の杜について考えよう。これはこの土地のヒメ・ヒコ神信仰に関して考えることでもある。伊豆山神社の中では摂社の結明神社がそれそのものなので、詳細はそちらの稿に譲るが、簡単にまとめると三つの系の話が重複している。

1. 日金山の大杉から生まれた日精(女)・月精(男)がおり、初島の初木姫のもとで育てられた。後に二人は夫婦となり伊豆権現氏人の祖となった。この日精・月精が結明神であり、古々比の杜に祀られる。(走湯山縁起)
2. 初島の初木姫が海を渡り、伊豆山にやってきたとき、逢初橋のところで伊豆山彦と出逢った。逢初橋はまた、源頼朝と北条政子の出会いの場であったとも言われる(土地の伝説)。
3. 日金山(旧称:久地良山)の地下には夫婦赤白の龍が交合している。尾を箱根芦ノ湖に浸し、頭は伊豆山の地下にある。(走湯山縁起)

このような次第で、古々比の杜はヒメ・ヒコ神にまつわる聖地であるという側面が色濃い。かつて伊豆山には日精・月精に由来する「恋祭り」という神事があり、各地から若者が集まったと言うが(結明神社由緒)、これらからすなわち古々比とは「かがい(歌垣)」の杜であったことが察せられる。後に頼朝・政子の逢瀬の森として伝承されることになるが、逢初橋(伊豆山神社登り口付近)と同じくより古い話の上書きだろう。

そして、これは古々比の杜の「生のモード」であるのだが、ここは同時に「死のモード」にも繋がっていると思われる。何となれば先から出ている聖地の中心地「日金(ひがね)山」とは、熱海や湯河原の人たちにとっては今に至るも「死んだら行く所」という山なのだ。

伊豆山の信仰空間
伊豆山の信仰空間
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「日金山」という単独の山はなく、現在の十国峠周辺を指してそう言われてきた。日金山東光寺という地蔵堂があるが、そこが信仰の中心で、あるいは伊豆山権現の大本ではないかと見る向きもある。

日金地蔵の信仰で注目すべきことは、春秋の彼岸に近在から多くの人が参詣することで、殊に肉親を亡くした場合、三年の間は必ず日金山に登らなければならないとされている。それは死者の霊が日金山にゆくとされているからである。人々は死者の霊に会うため日金山に登るのであり、それは相模の最西部(湯河原、真鶴あたり)から駿河の駿東郡、伊豆の田方郡(熱海、伊東を含む)一帯の人々にとって重要な彼岸行事となっている。

『日本の神々』より引用

今はハイキングコースだが、本来はこういった東北の恐山のような霊場であったのであり、今でも相当数の上記の土地の人にとってはそうなのだ。端的に黄泉であろう。この日金山への熱海側の登り口が伊豆山神社・古々比の杜となる。すなわち、古々比の杜とは黄泉への入口も意味する、ということだ。

このようにこの場所は生のモードと死のモードが交錯する所である。さらに杜を含む山の山頂は「岩戸山」と言い、この信仰空間の強力さが伺われる。その生と死の世界の境界に白山神社・菊理媛命が祀られているのは偶然ではないだろう。

以上、史料から追うことは出来ないのだが、白山神社・古々比の杜が持つ意味について重要となるであろう点を紹介しておいた。先頭に述べた「この神格が伊豆山の信仰空間に完全に組込まれたものなのか、一般的な勧請であるのか」という問題は、個人的には「組込まれている」こととなるに相違ないと考えている。伊豆山神社全体への考察が進むにつれて、これらの意味はより強く感じられることになると思う。

脚注・資料
[資料1]『日本の神々 第10巻 東海』谷川健一:編(白水社)
[資料2]『田方神社誌』静岡県神社庁(1985)
[資料3]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)

白山神社(伊豆山神社末社) 2011.10.17

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