番外編:伊豆の道祖神(五)

索部:伊豆神社ノオト:2011.10.07

伊東の道祖神(四)

伊豆の道祖神の概略の方で紹介されなかった伊東の道祖神を見ていこう。

湯川の道祖神
湯川の道祖神
フリー:画像使用W840

伊東駅から湯川の鹿島神社へと向う途中に道祖神さんの一群がある。湯川でも塞の神と言うが、別名「おんぞんさん」とも言っていたそうな。お地蔵さんの訛りだろう。

興味深いのは、ここ湯川でもかつてはドンド焼きが盛大に行われていたと言い、また、その際地区同士の子供らの争いも大変だったと言うのだが、その時子供らは野バラの木を切ってきて「サイカチバラ」と言って、喧嘩道具に使ったという。相模大磯のドンド焼きの藁積みを「サイト」と言うが、これは才戸などとも書かれるが、道祖戸(サイト)であり、「塞の神の場(戸)」のことだろうとされる。サイカチバラのサイも塞の神のサイだろう。

ヤブコギなどしていてこの野バラに行く手を遮られたときの面倒さと言ったらない。要は茨のことなのだが、意図的に茨で道を封じる、そのような「塞」があったのかもしれない。

静海八幡神社の道祖神
静海八幡神社の道祖神
フリー:画像使用W840

静海町というところに単立の小さな八幡神社があり、境内の隅に(裏通りに面して)写真の道祖神さんがある。その背後に赤い祠が見えているが、これは伊東の漁師がよく祀る疱瘡稲荷である。ここの道祖神さんも疱瘡神との習合が強いものかもしれない。

ところで「道祖神の持ち物」というのも大変興味深いテーマで、笏・剣・宝珠・薬壺・合掌……と色々なのだが、私はここの道祖神さんには大変注目している。この像は「桃」を持っているのではないか。『せえの神さん』でも、桃持ちの像の可能性は指摘されているが、一覧の中で桃を持つと明記されている像はない(ここ八幡の道祖神は扱われていない?)。いずれにしても、もしこれが「桃」ならば、大変希少な例だと言えるだろう。

渚八幡神社の道祖神
渚八幡神社の道祖神
フリー:画像使用W840

道祖神さんは「門の神」のように据えられることもある。上の写真は渚町の八幡神社の社頭だが、鳥居の前両脇に道祖神さんがおる。まさに「門の神」だろう。伊東では昔は「削りかけ(ヌルデの木などを削って作る御幣)」を「門入道」と言って道祖神さんに供えたそうだが、むしろ門入道が道祖神さんの原形のひとつだろう。削りかけを道祖神に供える次第は関東一円にも見えるがこれも同様で、石造物となる以前の道祖神の姿、ということだろう。

竹町の道祖神
竹町の道祖神
フリー:画像使用W840

この写真の道祖神さんはその門入道がかつて供えられたという話の伝わるものなのだが、さらに面白い話がある。「現代」の話なのだが、夜中に居眠り運転の車が、ここに突っ込んでしまったのだそうな。そして、道祖神さんに激突して止まり、家屋には被害はなかったと言う。翌朝、近所のお婆さんが事故車の脇で塞の神の神威を力説したそうな(笑)。写真を見るとせせこましい所に押し込まれているように見えるが、その事故のせいで道祖神さんが物々しくガードされる結構で手厚く祀られるようになったからなのだと言う。

『せえの神さん』ではこの話を引いて、交通安全のお参りは成田山など遠方に求めるのではなく、こうした道祖神さんにこそ行うべきだ、と力説しているが、私もまったくそう思う。

池の道祖神
池の道祖神
フリー:画像使用W840

伊東でも内地の方はすっかり「道の神」として道祖神さんは祀られることになる。池はもう随分と山懐に入った土地だが、道祖神さん脇の解説でも「伊東道と田方道が交わる場所で、江戸時代の高札場でもあった」と主要道の交点であったことが強調されている。

池から十足(とうたり)、荻へ向う道中には、脚に怪我を負った武将がここまで落ち延びてきたものの、もはやこれまでと割腹し、それが「脚の神」として祀られ云々とか、廻国の坊様が病に倒れたのを懇ろに葬った所村の塞の神として厄を防いで云々など、ストレンジャーの死が祀られる話も多い。全国的には道祖神はそのような「道の神・足の神」となって草鞋が奉納されたりする存在でもあるが、伊豆でも山間に入るほどそういった色は強くなると言えるだろう。

新井神社の道祖神
新井神社の道祖神
フリー:画像使用W840

つまり、伊豆の道祖神も形は伊豆型でも「陸型」と「海型」の祀る次第の別があるということなのだ。これは実際そう指摘されている。『せえの神さん』でも新井の項に、「伊東の塞の神行事も、はなはだしい地域差は見られないが、大まかにいって、漁村型と農村型とがある」と書かれている。

写真新井神社は伊東港を見下ろすまったくの所「漁村の社」であり(もとはエビス神社だった)、今は新井の道祖神はすべてここに集められているという。以前も述べたが、漁村型の道祖神祭祀の特徴は「船主」がその発願者になる、という点が最大のものである。私はこの点に「海の道祖神」の核心があると考えているが、それは次回以降の考察の稿で展開しよう。

東伊豆町の道祖神

伊豆大川三島神社の道祖神
伊豆大川三島神社の道祖神
フリー:画像使用W840

伊東市から南へ。賀茂郡東伊豆町に入って伊豆大川の三島神社の社頭に写真の道祖神さんがある。目の前が海の三島神社で、道祖神さんも海を見守る意外の何者でもない存在だろう。前回湯河原でも見たが、ここでも「道祖神さんのような形の自然石」が道祖神さんと並んで祀られている(中央)。

伊豆大川三島神社社頭
伊豆大川三島神社社頭
フリー:画像使用H840

三島神社社頭は写真の大松が目をひく。この松の後ろ側に道祖神さんがある。大木は内地でも街道の目印であり、その下に道祖神さんが祀られたものだが、ここ大川三島の松は洋上からの目印に相違ない。このような点で、海の信仰と陸の信仰が混淆して行く訳だ。

水神社の道祖神
水神社の道祖神
フリー:画像使用W840

東伊豆町に入ると、急に「片手に何か持つ」タイプの道祖神さんが目につくようになる。土地の流行だろうか。上の写真も剣持だろう。笏を持つ場合は両手で持つように作られると思う。水神社さんは奈良本の大分内陸に入った所に鎮座されるが、これが東伊豆町の稲取など海側の道祖神を考える上でも大きな問題となるので覚えておきたい。

片瀬白田の道祖神
片瀬白田の道祖神
フリー:画像使用W840

さらに南下して、片瀬白田の片瀬の海側には写真のような道祖神さんがある。twitterで教えてもらい、探し出した。明らかに剣持だろう。左手の持ち物は数珠だと思う。加えて、片脚がやや下方にのびているのも他に見ない。私はおそらく牛頭天王像に近接した疱瘡神としての道祖神なのではないかと見ている。ちなみに総称として「道祖神」の語を用いているが、全面的に土地の人の認識は「サイノカミ・セエノカミ」である。ここの像を探す過程で土地の方に伺った際も「道祖神」ではまったく通じなかったが、「サイノカミ」と言い直したら、「ああ、サイノカミさんね」とすぐ場所が分かった。

片菅神社の道祖神
片菅神社の道祖神
フリー:画像使用W840

片瀬の総鎮守である片菅神社の社頭の道祖神さん。好々爺、という言葉はあるが、その婆版は何と言うのだろう。とにかくこれまでの道祖神さんの中でも「おばあちゃん」な感じは一番な像だ。このイメージもこの先の伊豆の道祖神とはそもそも何か、という話に大きく影響する。伊豆諸島にはまるで沖縄のような老婆たちを中心とする巫女の集団があったが、私の中ではそのイメージと伊豆半島の道祖神像のイメージが重なっている。

白田の道祖神
白田の道祖神
フリー:画像使用W840

白田川を渡って白田側、天神社へと登っていく途中の道祖神さんはまた「剣持」のように見える。頭巾の造りも似ているのであるいは先の水神社さんの道祖神と同じ石工の作かもしれない。

さて、このような「片手に何かを持つ」タイプと同系か否か、この先の稲取にも似たような像があると言う。未見なのだが、今はもう劣化が激しく何を持つかなどは判別できないそうな。そして、その像を見た折口信夫は「八百比丘尼」の像だと断じたという(折口は足柄下郡史の編纂をしている)。折口のお弟子筋にあたる石上堅氏が『日本民俗語大辞典』に次のように書いている。

静岡県伊豆稲取など、道に「塞の神」といわれる老姥石座像は、膝の上に帳面をひろげ、背に椿の枝を負っているものがある。村人の罪障は一つ残らず書き記されているので、トンドの火の中に入れ、毎年その罪障を消失させている。

石上堅:著『日本民俗語大辞典』より引用

webサイト「下田街道」様でこの像を取材されているので、参照されたい。

稲取の道祖神(八百比丘尼?)
稲取の道祖神(八百比丘尼?)
リファレンス:web「下田街道」画像使用

はたしてこの像が八百比丘尼なのかというと、手に持つものが見えなくなってしまっている以上、現在はもう判じようがない。しかし、周辺にまったく類似のものがない以上、そうだったとしてもイレギュラーなものではあるだろう。やや広く見ると、相模箱根の芦ノ湖近く、精進池のほとりにある宝篋印塔の残欠が「八百比丘尼の墓」呼ばれてきた。また、相模大磯には豆腐を「人魚の肉」に見立てて祭事に食べるという八百比丘尼伝説に連なる漁師の風習があった。相模湾岸にも八百比丘尼伝説の伝播はない訳ではない。

これまでに見た東伊豆町に散見される「片手持ち」像の相対的な多さがどう関係するか。この像もそのような方手持ち像の一系で、片瀬のように牛頭天王像に近接した像だったのではないか、とも思えるし、逆に、正しく八百比丘尼像であり、この像に触発されて周辺片手持ち像が増えたのだ、とも考えられる。いずれにしても東伊豆町の道祖神さんを考えて行く上で一番面白い所だと言えるだろう。

稲取三島神社の道祖神
稲取三島神社の道祖神
フリー:画像使用W840

それはともかく、稲取の港でも伊東同様の道祖神さんの祭祀がある。この辺りに関しては伊東のようにまとめられた資料も見ないので、どのような祭祀だったのかはよく分からないのだが、どの像も荒っぽい扱いを受けていたようで、おそらく同じ信仰空間がのびてきていたのだろうと思われる。上の写真、三島神社社頭の道祖神さんは立派な鳥居が構えられているが、下の稲取港近くの道祖神さん前にもまた立派な鳥居があった。少なくとも「鳥居で祀る」ものだという認識ではあるのだ。

稲取港近くの道祖神
稲取港近くの道祖神
フリー:画像使用W840

以下山に入るとお地蔵さんのようになってくるが、ここでも「似ているけど同じではない」という感覚は共通なのだろう。上写真には「五輪石」が見える。五輪塔の先端部を「ゴリン石・ゴロ石」と言って縄をつけて引いたりすることは紹介したが、この様により大きなパーツは「線香立て」として使われることも多い。

上船原の道祖神
上船原の道祖神
フリー:画像使用W840

稲取の港周辺から入谷の方へと登っていく途中、愛宕神社さんへと分かれる少し手前の上船原の辻にある道祖神さん。浜石のような石が手前にいくつか供えられているのが目をひく。この先の愛宕神社さんはもう大分陸の中だが、稲取の港の火防の神として鎮座されており、漁師たちの信仰が厚い。そうなるとこの道祖神さんの石も海の人たちの何かなんじゃないかと思うのだけれど。

入谷の道祖神
入谷の道祖神
フリー:画像使用W840

さらに登って、山神社のある飯盛山の周辺、入谷の道祖神さんはもうお地蔵さんのような風ではある。ここでも周辺農村になれば道祖神さんも中身は内地型のそれになるのだろう。そして、この辺りが伊豆型道祖神の南限・西限である。ここから南西に賀茂郡河津町に入るとこのタイプの道祖神さんはぱったりと見なくなる。もしかしたら河津見高の奥になるこの入谷との隣接地にはあるかもしれないが、私はまだ訪れていない。

田代の道祖神
田代の道祖神
フリー:画像使用W840

入谷よりは少し下った田代の辺りでは、写真のように小屋の中に祀られている道祖神さんもあった。伊豆型道祖神では異例の祀り方ではある。前々回に「実は、伊豆では「道祖神さんの小屋」という表現がまったく出て来ないのだ」と述べた通り、皆露天で祀られているのだが、ここは例外と言えるだろう(神社絡みで小屋のあるものはあるが)。河津からは石祠で祀る地域となるが、そことの境に近いということもあるかもしれない。

このような所が伊豆型道祖神さんの分布だ。稲取を持って一応終了となる。前回から多くの例をあげてきたが、なんとなく全体的なイメージが掴めるだろうか。これらのイメージをもとに、いよいよ次回からは「伊豆の道祖神とは何か」の考察に入ろうと思う。

補遺:河津の子安さん

七滝入口の子安像
七滝入口の子安像
フリー:画像使用W840

河津から南は人型の像がぱったりなくなる(石仏はたくさんあるが)。その中で、今の所唯一の人型像を紹介しておこう。河津七滝の入口、子守神社神社の近くにある。子安の像だろう(「子安地蔵」と見るなら石仏ではあるが)。河津には子安・子守・子神社が多いが、このような像はここでしか見ていない。無論私も河津の隅々までを知っている訳ではないので、あるいはこのような像もちらほらあるのかもしれないが、今の所は希少な例である。その造作からも伊豆型道祖神の影響があるのかもしれない。

脚注・資料
[資料1]『せえの神さん』木村博・鈴木茂:著 サガミヤ選書(1976)
[資料2]『日本民俗語大辞典』石上堅:著 桜楓社

番外編:伊豆の道祖神(五) 2011.10.07

伊豆神社ノオト: