番外編:伊豆の道祖神(三)

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.30

伊東の道祖神(三)

〜火にくべられる道祖神〜

八幡野の道祖神
八幡野の道祖神
フリー:画像使用H840

前回の「叩かれる道祖神」についで、同様の「虐待」のイメージでとらえられる「火にくべられる道祖神」の紹介をしていこう。伊東市でも南の方、八幡宮来宮神社のある八幡野のあたりでは、小正月の道祖神祭の火祭りが盛んに行われていた。記録上も大変よく描かれている。先ずはこの様子を見てみよう。

まず、オンベ竹の最先端に、茶袋という芯にお茶ガラが入り、まわりが布地の玉を四つ作り、この玉が東西南北を指すように取りつける(昔はクス玉をつけた)。この下に四本の扇を全開にし、円に作り日輪に見たてる。さらに日本の扇で半月をかたどり、併せて日月としてかかげる。ついで、オンベ竹の中央にあたる部分に、等身大の武者人形をつるす。
……中略……
その下にスス竹、女竹の類を円すい形にたてかけ、最後に守護札、〆飾り、門松、だるま、書き初めの類を円すい形のまわりに配して完成させる。 そして重要なのは、オンベ竹の中心となる下部に空洞を作り、火をつけた際の空気口となってオンベ全体の火勢を強める役をさせたのである。さらに外から、ここに子供たちが自由に出きり出来る一種の部屋の役をもはたした。これをオンベ小屋と称し、夜番の子供が寝泊まりする泊まり小屋の役目をはたした。この他、塞の神のもとも小さな一体を「ゴロ」と称し、これをドンド焼の時、このオンベ小屋の中心に、あらかじめ置いて、わざわざ焼くことも行われた。

木村博・鈴木茂:著『せえの神さん』より引用

残念ながら、伊豆の海では昔、このドンド焼きの際の火から大火事が出てしまい、寝泊まりしていた子供が亡くなる、という痛ましい事故があり、以降火祭りの次第はすっかり衰退してしまった。そこで、ほぼ同様の次第を持つ、相模大磯の左義長(サイトバライ・ドンド焼きのこと)の写真を見比べていこう。

オンベ(サイト・大磯)
オンベ(サイト・大磯)
フリー:画像使用W840

写真はまだ朝方、大磯の海で上で言うオンベを作っている様子だ。大磯では中心の竹を「オンベ竹」というのは同じだが、周囲の円錐状の藁積みは「サイト」と言う(伊東の「オンベ小屋」にあたる)。大磯も今は縮小傾向にあるのであまり大きくないが、かつてはこのサイトの中に子供らが入れる様だったと言う。このオンベは大磯は藁だが、土地土地によって柴だったり竹だったりする。お正月飾りを積むのはどこも一緒だろう。

頃合いになると、各町内の親方の合図で浜に並ぶ三ヵ所のオンベにほとんどいっせいに点火され、火はたちまち数十米の紅蓮の炎となって燃え上がる。
……中略……
そんな中で、爆竹(燃える竹が爆ぜる)の激しい音を気にする一方、群集自身は、火の芸術がどうのより、オンベ竹全体がどのように焼けるかが重要な問題であった。よどみなく焼けず、表面だけ焼けると「骨が出た、骨が出た」と囃され、最もはずかしい焼け方とされた。
……中略……
そして最後にオンベが岡か海どちらに倒れるかで、豊漁と豊作の予祝が占われた。一般的にいうと海に倒れることを願った。海岸部で行われた三町内のドンド焼の競争は、つまるところ武者人形やその出来ばえ、火のまわり、竹の倒れ方向等を綜合して勝敗が決せられた。

木村博・鈴木茂:著『せえの神さん』より引用

燃え上がるオンベ(大磯)
燃え上がるオンベ(大磯)
フリー:画像使用W840

と、このような次第である。この祭のディティールには大変興味深い要素が目白押しなので指摘し出すとキリがないが、それは稿を改めるとして、ここではこのオンベの中に道祖神さんを据え、焼いたという一点に関してさらに詳しく考えていこう。何となれば、ここには中部から関東、そして東北にまで至る共有されたストーリーがあるのである。

川奈の道祖神
川奈の道祖神
フリー:画像使用W840

各地でディティールは色々分岐するのだけれど、大まかに筋を追うと以下の通り。

1. 年末(コト納めの時期に相当する)、ひとつ目小僧(目ひとつ小僧・疫病神)が里にやってきて、里人の一年の悪行を帳面に付ける。この記録によって翌年の厄(病)がもたらされる。
2. ひとつ目小僧は帳面が重くなりすぎたので、里の道祖神さんに帳面を預け、年が明けたらとりにくるから、と言って去る。
3. 道祖神さんは帳面の中を見て、この通り里に厄がもたらされたら大変なことになってしまう、と悩む。そして、年が明け、ひとつ目小僧がもどって来る直前に、思いあまって自分の小屋もろともに帳面を焼いてしまう。
4. 道祖神さんがひとつ目小僧に、丸焼けになったので帳面もない、と言い訳して、ことはおさまる。里人はこの事に感謝して、毎年この様子を再現する火祭りを行うようになった。

このような具合だ。伊東八幡野ではこの話にちなんで、「塞の神の帳面だ」という文句が、わけが分からなくなってしまった時に使われてきたそうで、同様の話があったことが分かる。また、周辺直接道祖神を火にくべなくても、ドンド焼きのあとの灰で団子を作り、これを道祖神になすり付ける所はこの「丸焼けになったので」という言い訳のためだと伝えている。この話もひとつ目小僧・厄神とコトの神の問題、年末から年始への世界の新生の問題、など考えねばならぬモチーフが二重三重に組み合わされているのだが、今回は道祖神さんそのものや小屋を燃やす、という一点のみを考えてみよう。

まず、補足として、先のオンベと道祖神さんの小屋とのことを紹介しておこう。これは今ほとんどの地域で見られなくなってしまったものなので、理解が必要である。

武蔵日高の諏訪明神祠
武蔵日高の諏訪明神祠
フリー:画像使用H840

上写真は埼玉県日高市の高麗・巾着田脇の民俗資料館でみた藁造の祠だが、もともと「小祠」というのはどこも、こんな具合に造られていたのだと思われる。恒久的な木造ではなく、「仮屋」であり、藁などで造られていた。すなわち、一年毎に新造する次第がどこもあったものと思われる。

常陸行方のワラホウデン
常陸行方のワラホウデン
フリー:画像使用W840

小ぶりに屋敷神の石神などを祀るものは、今でも常陸の各所に見られ、これをワラホウデン(藁奉殿)と言う。道祖神をよく祀る地域でこのような仮屋とのセットが生き残っている所というのは現状分からないが(北関東から中部にあるか)、西相模も秦野などにはまだ屋根だけ藁造などの道祖神さんを覆う小屋が残っており、先のひとつ目小僧のストーリーも語られている。

つまり、これらが火祭りの由来となる「丸焼けになる道祖神さんの小屋」であり、オンベやサイトといった藁積み・柴積みの原形はこの仮小屋にあるのだと思われるのだ。

さて、これらのことから見えて来るのは、道祖神祭祀としてのドンド焼きの火祭りは、このような仮屋の新造にまつわるものであり、「神威の更新」の次第なのではないか、ということだ。伊豆で道祖神さんそのものを火にくべる(実はこれも相模一帯にも見える)のも、火に通すことによる新生の意味が本来だと私は考えている。なんとなれば、そもそも道祖神が石造物になったのは近世の話である。それ以前は削りかけのような(伊豆では「門入道」と言う)、御幣の原形のようなものだったと思われる。これは年ごとに水に流すなり火にくべるなりして新造しただろう。

神像が石造となり、新造の対象が小屋の方に移り……という次第で今の火祭りとなっていったものだと思う。前回の「叩かれる道祖神」が必ずしも「痛めつける」ことが本意ではなかったように、道祖神さんを火にくべるのも「火あぶりの虐待」ではないのだ。

川奈では、かつてドンド焼きが盛大に行われていた頃は、道祖神さんをオンベのよく見える所に据え、オンベの燃え方が良いと道祖神さんがよろこぶ、としていた。相模大磯では、今でも道祖神像を浜のサイトのすぐ脇へ運んできて、サイトの燃える様子が「よく見えるように」据える。この辺りも「神威の更新」というモチーフが底にあるからだと言えるだろう。

そして、ここには「火祭りとはそもそも何か」という問題が浮上してくる。ここまで、海と陸の火祭りのことを特に分て考えずに紹介してきたが(実際、現在はほぼ混合してしまっている)、もともとは別だったのではないかと思えるフシがあるのだ。例えば、伊豆の道祖神は海側のものほどそもそも「本来小屋に祀られていなかった」可能性がある。実は、伊豆では「道祖神さんの小屋」という表現がまったく出て来ないのだ。これは、今回見た広域のひとつ目小僧にまつわるストーリーが内陸から伊豆に伝わり、伊豆の海に合った「類似の別のモノ」と融合したのではないかと思わせる。今回の内容を逸脱するので稿を改めるが、「火にくべられる道祖神」の話は、そのような考察に繋がっていくことになる。

補遺

大磯左義長
大磯左義長
フリー:画像使用W840

先に伊東八幡野では、オンベ竹の倒れる方向で占う、とあったが、大磯では意図的に恵方にオンベ竹を倒す。上写真でロープを引いて倒しているのが分かるだろうか(取材者がこれを知らないと邪魔ものになる)。おそらくは八幡野のように、倒れるに任せて占うのがもとだろう。

しかし一方で、大磯の方には寒中海に褌一つで男衆が飛び込んで、陸側と仮宮をのせた木ゾリを綱引きで引き合う「ヤンナゴッコ」という神事がドンド焼きのラストに控えている。これで豊漁か豊作かを占うので、役割の分化もあるだろう。そして、実はこの「ヤンナゴッコ」に伊豆からの海への信仰を考える上での大変重要なモチーフがある。この項ではあたらないが、「伊豆の道祖神」後半でいずれ紹介することになるだろう。

川奈の道祖神
川奈の道祖神
フリー:画像使用W840

ひとつ目小僧の話の頭に川奈の道祖神さんの写真を載せたが、一応意味がある。川奈にはひとつ目小僧の話そのものはあまり伝わっていないようなのだが(南側の吉田にはよく伝わっている)、写真の道祖神さんの、大きな像の背後に隠れているような像、この像が「帳面持ち」だと『せえの神さん』に書かれている。「見なれているはずのここの塞の神の中から帳面持ちの塞の神を発見し飛び上がらんばかりによろこんだ。行列の右側の像が細長い帳面を両手で持っていたのであった。狩野川台風で流失した、いづみ荘脇の唯一と信じられていた帳面持ちに代わって新たに伊東塞の神の中に帳面持ちを確認したのは、特筆すべき事件といえる。」とある。

生憎私は川奈を訪れた段階ではまだそのことを知らずに、確認していない。上の写真も知らずに撮っている。もっとも写真も手前の像をどかさないと帳面部分は撮れないだろうから、そういう訳にもいかないが。しかし、ひとつ目小僧の話にまつわる「帳面持ち」の造形が存在する、というのはとても面白い。

「狩野川台風で流失した、いづみ荘脇の唯一と信じられていた帳面持ち」の道祖神とは、上写真の伊東駅からほど近い松原猪戸にあったそうだが、「守護帳」と彫られた帳面を持っていたそうな(拓本が残っている)。これが見られなくなってしまったのは残念なことである。

脚注・資料
[資料1]『せえの神さん』木村博・鈴木茂:著 サガミヤ選書(1976)

番外編:伊豆の道祖神(三) 2011.09.30

伊豆神社ノオト: