陸奥・常陸編 序

門部:陸奥・常陸編:2011.03.15

2011年3月11日に房総半島から岩手県にかけての広い範囲を襲った「東北地方太平洋沖地震」は日本の歴史上でも最大規模の未曾有の大地震であった。万をこえる命が失わたことが予想され、現3月15日の時点でも被災地では必死の救命活動が続き、引き続いて起った原子力発電所の事故は予断を許さない状態となっている。

この状況下で龍学は現行の一切の探求を凍結して「陸奥・常陸編」へシフトすることにした。

もとより私はこの地域の歴史・民俗に関して、通り一遍の事以外は何も知らない。多分専門的な文化財保護などの活動にはこれから一年経っても何の力にもなれないだろう。それでもこのシフトには感情的なものばかりではない意味があると考えている。

伊豆行

私は去年の夏から半年かけて東伊豆の神社を歩いて回った。十数回赴き、二百社以上の神社へ参拝した。結果、今は半ば「伊豆人」のような感じになっている。ちなみに私は西相模の人なのだけれど、ネット上では私を伊豆の人だと思っている方もいるだろう。

もとより西相模と東伊豆はお隣と言ったらそうで、元々地元感のある所だったのじゃないかと言うならそれもそうなのだけれど、実際には「伊豆行」をはじめるまでは熱海や三島に二、三度、伊東に子どもの頃一度行ったくらいだったのだ。ましてその歴史文化にさしたる興味を持っていたわけでもなく、伊東以南などまったくの異国の地であった(ぶっちゃけ伊東市の南にどういう行政区があるかも「下田?」くらいしか知らなかった……笑)。しかし、これが上記のような次第で今となっては「伊豆の歴史文化を馬鹿にされたら腹が立つ」くらいには「伊豆人」になってしまったわけである。半年で。

一体何の話をしているのかというと、この「半ば地元民化してしまう現象」が「陸奥・常陸編」の主眼目だ、ということなのだ。

半年後・一年後・二年後の復興

大災害時は皆が真剣に被災地を心配し、注目する。それは今皆様がご覧の通り。しかし、半年後はそうではない。これは良い悪いの話ではない。人間のアタマはそういう風にできているので致し方ない。阪神の時も中越の時もそうだった。被災地の方が落ち着かれ、いざ自力の復興へと各種プロジェクトを立ち上げる段になると、得てして世間の注目はまったく足りなくなっているものなのだ。

これは「それではイカン」と教条的に「注目を持続させるべし」と喚いた所でどうなるものでもない。のど元過ぎればそれぞれにはそれぞれのそれなりに困難な日常が戻るのだ。ではどうするのかというと、その日常に「半地元民化した自分」を織り込んでしまえば良い、とそういう話しなのである。

伊豆を相手にした半年を陸奥・常陸の地に対して半年やったら、同じような「半陸奥人・半常陸人」化が起ると思う。そして、そうなったら半年後・一年後・二年後の陸奥・常陸の復興に、半ばわがことのような注目と注力を自然と持つことができるのだと思うのだ。

0からでいい

これは素養が0からでかまわない。既に詳しい人間が行うべきこととはまた違うフェーズの話である。半年かけて「にわか陸奥・常陸学」を(迷惑にならない程度に)振り回せるようになれば良いという話しである。私など、宮城の本吉町が本吉郡でないことをようやくさっき理解したところなのだ(笑)。龍学の「陸奥・常陸編」はそんな所からのスタートなのである。

しかし、これは半年経ったあとにはじめれば良いということではない。立ち上げるのは早い程良く、半年後にはより練れている程良いに決まっている。

そして窓口も多い程良い。巻き込む人間は多い程良い。

これより龍学では、そんな窓口の一つとして、私が「半陸奥人・半常陸人」化して行く模様をお届けしようと思う。

陸奥・常陸編 序 2011.03.15

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