鹿行行:行方

門部:陸奥・常陸編:twitterまとめ:2011.06.25

今回はあたくし鹿行行パート2でして、常陸は茨城県行方市へ行っとりました。東海道始発の上りで、何と7時半には石岡に着いてしまうという快挙。しかし何ですな。始発列車というのは「これから一日ヤッタルぜー!」な人々と、昨夜終電乗りのがしてぐったりの人々とのオーラのギャップがすごいよね(笑)。
で、石岡駅。今まで時間の余裕がなくて撮れなかったのだけれど、一番線高浜よりには以前紹介した「国分寺の鐘」のお話がモザイク画11枚の大作連作で掲示されている。下にはストーリーも書かれていて必見。

玉造中心から霞ヶ浦の方へと行きますと「素鵞神社」が鎮座されている。所謂天王さんだが、大宝の鎮斎伝と、古くから湖岸開拓の中心だったろう神社さんである。
ここも地震で「危険」のロープが張られていたのだけれど、お隣の工場のおっちゃんに聞いてみたら「神奈川からきた?まー、いいんじゃねぇの?」ということなんで行っちゃいました(笑)。
ここは不思議な社地で、神社そのものも高台にあるのだけれど、さらにその両脇を塚が囲む結構となっている。そして、その向って左側の塚の上にこの大樹が。朝一から「ほぁー」状態のあたくし。尋常ならざる木というのは間違いなくある。
その塚の木下からはこんな風に霞ヶ浦が望める。一生懸命開拓しようとした土地そのものだ。曇りでなかったら筑波山もよく見えるだろう。ここは子安の神を祀ってもいる。
その湖岸の方での不思議空間。よくこの空間を残してるわよね。石塔は地震で倒壊しちゃったようだけれど、その後ろの一本の木が主役なんだろうね。
そこから内地の方へ、大宮神社を目指しているのだけれど、道すがらに立派な茅葺き屋根の門のお家が。作る技術を持っている所はあるんだろうね。
さらに道行き篇。かつての鹿島鉄道の残滓があった。単線ローカル線の鉄橋故に驚くべき細さだ。道路部分だけレールが残っている所もあったなぁ。

そして「大宮神社」へ。玉造総鎮守格である武甕槌命を祀る社。で、『神社誌』に「天女羽衣面一対奉納(現存)」という驚くべき一文の書かれている神社でもある……でもね?
参拝している時にちょうどご神職の方が来られたので羽衣のことを聞いてみたのだけれど「えぇ?いやうちにはないねぇ。うちにあるのは面、お能のお面」……そういうことかよっ(爆) 天女の羽衣が面一対、ではなくて、「能の〝羽衣〟のお面」一対が奉納されていたのだった……orz
特に天人女房的な伝説がある、という訳でもないそうな。玉造の祖にそういう伝説があったらホームランクラスだったんだけどなぁ。「歩いてきたの?……ご苦労様だねぇ」とご神職。余程あたしはがっかりした顔をしていたらしい(笑)。
「残念じゃったの」と狛犬殿も言っとりました。ま、それはともかくとしてもここ大宮神社は霞ヶ浦北東岸の神祀りの典型的な結構を見せる素晴らしい神社様であります。和銅年間鎮斎伝といい、有名ではないけれど重要なポイントとなる所。
境内社の雰囲気も並ではない(松尾社)。結構内陸にあるが、五月の例祭時、神輿が霞ヶ浦湖畔まで渡御する。かなり浜降り祭に近いものがあるが、この辺も後で重要となる。
また、「石神にワラホウデン(藁の仮屋)」というこれまでにも度々紹介した祀り方が境内に見える。大樹の根元にあるので、木を祀るという次第なのだろう。
玉造の中心へ下ってきまして道すがら。立派な朱塗りのお宮があって「庚申講」の石碑がある建物が。あら、まだ庚申講やってるのかしら、と思って道行く爺ちゃんに聞いてみましたら……
「あん?……………(10秒)………(15秒、1…2…後手爺ちゃん)……いや、聞かねぇなぁ。あれだ、部落の公民館よ」とのことでした。昔は庚申のお堂だったんかなぁ。
この間夜刀の神の社へ行ったときはこの道を下って帰って来た。右手の丘陵がこの辺蛇の話絡みでよく出て来る「鳥名木(となぎ)の殿様」のお城のあった所。今は素人目にすぐ分かる遺構もないようなので行かないけどね。
玉造の手賀という所に向ってまして、道行きにステキ郵便局が。惜しい。そこはポストは丸ポストだろうJK。

その手賀の「八坂神社」さん。歴史的に分かることは少ないが、後の「荒原神社」と合同で「お浜降り」の神事を行う。神輿が浜に降りるのだ。霞ヶ浦は海じゃないので、「浜降り祭」の考察でカウントされないが、この辺の祭祀は勘定した方が良い。
『神社誌』に「本社の彫刻は近郷稀なる作」とある御本殿には覆殿がなく、見学することができる。木獅子殿のお顔がすごいのだ。
さて、以前紹介した「道祖神に言い寄られて崖上に逃げた弁天さん」の話があるのがこの手賀なのだけれど、その弁天さんがどこかというと分からない。地図上高台にあるお宮状の建物、ということで当たりをつけていたのが手賀小学校の脇の建物だったのだけれど……

すぐ石段手前で婆ちゃんがおって聞いてみたけど「知らねぇなぁ……」とのこと……orz この上お宮さんじゃないですか?と聞いてみると「稲荷さんだ」という。行ってみると……稲荷さんでした。
まー婆ちゃんに鳥名木の殿様のことを聞いてみても「誰だそりゃ」という感じで、しまった、隣村のことはもうよく知らねえ、という土地か。これはもっとピンポイントに絞ってからじゃないと伝承の地は探れそうもない。
ふごふご、とそのまま内地へ入りまして「荒原神社」へ。この辺の古社は皆霞ヶ浦から同じような距離内地へ上った所に鎮座する。すると社叢の端に銅像が。手賀の里を開拓した古代民を象ったものらしい。弟橘媛と同じ人の作だな。

手賀は風土記に見える土地で、べらぼうに古い歴史のある所だ。そして、この荒原神社は「里の北に位置する香嶋神子之社」とその風土記にある所ではないかと考えられている。行方には式内社はないが、それどころじゃない話の伝わる神社が多い。
鳥居脇の苔がすごい。まー、人なんか来ねえとこだからだろ、という気もするが(笑)。苔マニアとしてはこういうの踏んづけないで下さいね、と言っておきたい。
道すがらに何とも気持ち良さそうなつくりにしてもらっている石祠が。「天宮神」と、ありそうで見ない石祠だ。妙見かね。
また道行きにこんなのが。所謂地蔵供養の類いだろうと思うのだけれど、何度か出ている股木の犬卒塔婆で地蔵供養を行う所もあってここも昔はそうだったんじゃないかなぁ、と思うと……
お隣に「愛犬チャー」とな。やっぱ犬卒塔婆の風習が忘れられてこう成ったんかなぁ。
だがしかし。少し離れて西蓮寺という所の香取神社さんの近くでまたこんなのがあり、「如是畜生発菩提心」とあるのでペットの供養だろうが、ちょうど通りがかられた婆ちゃんに話を聞いてみると……
「股木でやっとこもあるけど、ここいらじゃやらねぇなぁ」とのこと。股木卒塔婆を知らぬ(廃れた)という訳でもないようだ。当たり前だがその風習の分布する範囲皆が皆やっているという訳ではない、ということだろう。ちなみにここの主は猫ちゃんだそうな。
しかしまぁ。前回の行方篇はまだ田植えの季節だったけれど、育ちましたな。このくらい田んぼばかりが延々続いている所で見るとものすごいものがあるね。
そして常陸高野を名乗る〝THE SIREN〟寺へ……すいません……げふんげふん。いや、お寺には行かんけどね。ここ西蓮寺(地名でもある)の香取神社さんへ向っておるのです。

大同二年鎮斎の伝である香取さんで、場合によってはこの後の「側鷹神社」の由来と関係する所もあるかもしれない。ま、今の香取さんはご覧の通りのザ・鎮守の杜という慎ましい神社さんだったけれど。
ここ西蓮寺は『茨城の民俗』で市神特集の中で単独報告のある所だ(『茨城の民俗 第9号』)。まだ未見だが、その内容次第ではまた来るかもしれない。
今日はこの両部鳥居率が異常である。これまで皆社殿直近の鳥居が両部だったような?神仏習合率の高さのバロメータとも言われるけれど、そうなのかな。

一度また湖岸へ下って再度上って南の「井上神社」へ。ここの歴史は複雑でまたつぶやきでは無理レベルなのだけれど、大雑把には風土記由来の井戸への信仰と八幡の合祀、と言える。
井戸への信仰とは風土記に見る日本武尊が勾玉を落したという玉清井のことなのだけれど、これが何の話なのかというとあたしは子安系だと思っていた。で、来てみますと本殿真裏にこれこの通り。
まるで妊婦さんという御神木を祀っている。井上の井信仰は子安信仰だったに違いない。勾玉を落した、というのは勾玉が胎児の見立てだ、という話に繋がるのではないか。
境内の一角。境内社じゃなくて、付近のお役御免の道祖神さんやら稲荷祠やらが集められている。なんか良い配置ですな。夜な夜な「小さな神さん達の集会」が行われていそうだ。酒宴かもしらん(笑)。
道すがらちと不思議な祀られ方の石祠が。屋敷の敷地の端ではあるが屋敷神という感じではない。手前は溝になっているが水が流れるという風でもない。さらに手前は畑。祠の前にこんな踊り場のような設えがあるのは何だろうね。
その玉清井は、井上神社から霞ヶ浦湖畔に下ってきた田んぼの中に「玉清井の森」としてある。中はお社と湧き水が石柵で囲われてあるのだけれど……
同じく見渡せる範囲にもうひとつ小さな木立があった。「アヤシイ」と囁くのですよ、あたしのゴーストが(笑)。
行ってみますと、こちらにも「玉清井遺蹟」の碑が。うふーん。こっちのが古いんじゃね?
そして、こっちはあまり管理されていなくて見た目はあれだが、水場のほとりのこの石。このような奇妙な石に小石を積んで祀るのは女護ヶ石系の定番だ。子安の井の信仰の場はここだったんではないか。
井上からさらに南下しますと、そこはもう旧玉造町ではなくて麻生町になる。蛙ぴょこぴょこ。小さ過ぎる上に反応が鈍いので踏んじまう所だった(笑)。オタマジャクシから蛙になりたて、という所だ。

そしてまた古社は内地の上ったとこにある、ということで登っていきまして「八王子神社」。もうこういう参道にあらずは神社にあらず、という感じなんだろうね常陸は。
茅葺き屋根時代の形をそのまま銅板にするとこうなる系の重厚なお屋根。ここも大同二年鎮斎を伝える、国狭槌命を祀る社。菰で餅を包んで撒く祭がある。
境内にぽつねんとおんまさんが。「稚児の流鏑馬の神事」という「それどんなんやねん」という祭が五月の節句に行われるという。

お次は正確な位置の分からなかった「国神神社」へ。例によって通りがかった婆ちゃんに聞いてみると「そこ曲ったら書いてあるから」と言う。たしかに書いてありましたな。どうなったんだ、これは。
そして社叢に至ると……なんとまあ。近所の子らが。お兄ちゃんが妹ちゃんに一生懸命お参りの仕方を教えているのだ。「もっと頭を下げるんだよ」と……もう、あたしの今月の成果はこの光景に出逢った、だけでいい。
ここは正確には「国神(くにつかみ)の社」であり、風土記に「郡の東に国社がある。これを県の祇と号く」とある社だと考えられている。貞観年間に従五位を叙されたという堂々たる式外社だ。
んが、中世以降辺り人が住まない土地になり、かなりの時期廃絶していたようだ。それでも宝暦からの棟札を所持するようだが。復活の風土記の社なのである。
また下ってきます道行きで、またあたしの目が飛び出る。毎週飛び出てる(笑)。道祖神だが、明らかにヒトガタが彫られている。常陸の道祖神で人の形を彫ったものははじめて見た。結構レアものではないか。
杖を持った立像、に見えるが何だろうね。こんなところに。手前左右に主道があって、より山奥に入って行く写真の道との分岐に。

またてくてくと小一時間進みまして、小高というところの「側鷹神社」さんへ。「ソバタカ」神社とは香取神宮摂社にしてあちこちに勧請されている。中でもここは「栗家の池あり、北に香取の神子の社有り」と風土記にある社ではないかとされる所。
しかしもう神社に明かりのともる暗さのことよなレッドゾーン。経津主命東征の折、石槌剣を捧げ、戦勝を祈願した社なのだと伝える。今日見てきたように、この辺りはこういった「風土記の社」が連なっているのだ。
背後には御神木エリアがあるのだけれど、もう暗くて何だかワカランですにゃ。手前石碑は相模大山どのであります。もともと大山さんは下総なんかでよく祀られるけど、ここが香取であるのと関係するのかしらね。
本社殿前の脇侍のような朱の祠が、この間の阿見の室崎神社なんかを思い出させる。あそこも経津主命系だ。香取系の社殿様式とかあるのかしら。
そんな所で日没エンドでありました。麻生の大麻神社の方までは行けると思ってたんだけどなぁ。ま、実際その近くまでは暗い中歩いて行ってんだけどね(笑)。そんな欲張ることもないか、という内容ではありました。
この日回った辺りは神社メグラーの方々の参拝記にもあまり出ない「穴」な所なんだけれど、見てきたように「風土記の社」が軒を連ねる大変な所なのであります。なかなか貴重な見聞の得られた一日だったと言えましょう。/了

補遺:

以下に『常陸国風土記』の行方郡の丈から関連箇所を引用しておく。引用元は『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)。ちなみに現在行方市は「なめがた」だが、風土記では「なめかた」と読まれる。

倭武天皇が天の下を巡察して海北の地を征討平定し、ちょうどその時この国を通過なされた。そして槻野の清い泉にお立ち寄りになり、水に近寄って手を洗い、お持ちになっていた玉を井の中に落とされた。〔その井は〕いまだに行方の里の中にあり玉清の井〔異本・玉の清水〕といっている。

『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)より引用

井上神社と下っての玉清井の森に関する部分が上引用文。「槻野」と地名が出ているが、今この地名はないようだ。この後出てくる「郡役所」はおそらく今の「行方(行方市行方)」にあったと思われるので、以下の要領で言ったら「郡役所の北西に槻野の里がある」、となるだろうか。

さらにお乗り物を廻して現原の丘においでになり、お食事をお供えした。その時天皇は辺りを眺望してお付きの侍臣たちをふりかえって、「輿を停めて逍遥し、眼をあげて見渡せば、山ひだは高く低く入りまじり重なりあい、海の入江は長ながとうねり続く。峰の頭には雲を浮かべ、谿の腹には霧を抱く。風光いと興趣あり、国の姿は心ひかれるめずらしさである。まことこの地の名を行細(なめくはし・布置の精妙)の国というべきである」と仰せられた。後の世にもその〔仰せの〕あとを追っていまだに行方(なめかた)とよんでいる。《風俗の諺に「立雨降る行方の国」という。》

『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)より引用

上引用は前回の鹿行行:玉造の過程の芹沢大宮神社辺りの話だが、「行方」の由来が書かれているので(無論付会だが)、こちらにも引いておく。

郡役所の西に渡船場があり、いわゆる行方の海である。海松(みる)また塩を焼く藻を生ずる。すべて海にあるさまざまな魚類については、ここに記載するわけにはいかないほど多い。ただ鯨鯢はいまだかつて見聞したことがない。

『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)より引用

上引用の渡船場とは今の「船子」あたりだろうか。「海松(みる)また塩を焼く藻を生ずる」とあるのでかなり海水が入った汽水湖だったのだろう。

郡役所の東に国の社がある。これを県(あがた)の祇(かみ)という。社の中に冷たい水の出る泉があり、これを大井といっている。郡役所にゆかりのある男女が寄り集まって汲んだり飲んだりしている。

『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)より引用

上引用の社が「国神神社」だとされる。「郡役所にゆかりのある男女が寄り集まって」とあるように、実際行方(行方市行方)から近く、この時代の中心だったのだろう。

郡役所から西北のところに手賀の里がある。昔、手鹿(てが)と呼ぶ佐伯があり、その人が住んでいたために後々になってもそれを里の名につけている。その里の北には香島の神子(みこ)の社がある。社の周囲の山野の地は肥沃で、柴・椎・栗・竹・茅の類が多く生えている。ここから北方は曾尼(そね)の村である。古い時代に、名を疏禰毗古(そねびこ)という佐伯があったので、その名を取って村に着けた。現在駅家を設置している。これを曾尼の駅という。

『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)より引用

上引用の社が「荒原神社」だとされる。手鹿という佐伯がおったのですな。佐伯とは土着の人々で、土蜘蛛とか書かれるのと同じ。かけ声が西からの人々には耳障りだったようで「サエグ(騒ぐ)」からサエキ(佐伯)となったという。曾尼(そね)の村は今の「泉」辺りだったと考えられている。この引用文の直後に泉の南側の「夜刀の神」に関する記述がある。

郡役所の南七里のところに男高(をたか)の里がある。むかし、佐伯の小高というものがそこに住まっていたので、それによって名づけた。国宰当麻の大夫の時に築いた池が、今も路の東にある。その池から西の山には猪や猿がたくさん住んでいて、草木がひどく茂っている。その池から南に鯨岡がある。上古、海鯨が腹這って来て寝てしまった。そこには栗家の池がある。その栗が大きいので池の名とした。北に香取の神子の社がある。

『風土記』吉野裕:訳(平凡社ライブラリー)より引用

上引用の社が「側鷹神社」だとされる。「七里」というのは当時一里=五百メートルちょいである。大体今で言ったら四キロくらいということになり、今の「小高」の地名と合致する。ここも佐伯の名だったのですね。鯨岡がある、というのだけれど霞ヶ浦北東側は一定間隔ごとに似たような岡があるのでどれとも言えなかった。今の「南」の地名のところ辺りの岡かな。

こうして見てみると今歩いて回ってもナルホドと思う。やはり「行方風土記の社巡り」はもっと注目されても良いのではないか。

鹿行行:行方 2011.06.25

陸奥・常陸編:

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行方市旧玉造町。今回スタートポイントまでの行方市北西側はこちら。夜刀の神を祀る社へ。
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