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参拝記と私見

参道入口の一之鳥居
参道入口の一之鳥居

来宮・杉桙別命神社へは平成二十二年の九月十一日・二十三日に参拝している。十一日はもう夕方になっての到達だったので西日がきつく、二十三日にもう一度撮影に赴いている(今度は雨模様だったが)。東伊豆町稲取から河津に入って、がらっと雰囲気が変わった印象があった。「南豆」というのは曖昧な地域区分だが、個人的な感覚としては河津からが南豆という気がする。

参道入口の大楠
参道入口の大楠

ここに大楠があるというのは聞いていたが(参拝時はあれこれの詳細には通じていなかった)参道入口の半ば朽ちたような上写真の大楠を見て「これか、すごいね」とか思ってしまったのも良い思い出である(笑)。本当の天然記念物の大楠は上に見たように本社殿脇にあるが。でも今にして思えばこの参道入口の大楠も相当なもので、「七抱七楠」の一ではないのか、という気もするが。

1. 黒潮に沿って展開した海人族がタブの木や楠を信仰する、漂著神(ヨリガミ)と樹木神の信仰を伊豆半島・伊豆諸島にもたらした。
2. 伊豆諸島を本地として伊豆三嶋大神とその眷属のパンテオンが育った(古墳時代から平安時代)。
3. 同時期、半島東側海岸には、島嶼より来る三嶋大神の眷属を祀る人々の社が建てられ、古い漂著神−樹木神と習合してキノミヤ信仰の原形ができた。
4. これらの社のうち海上からの指標となるべき一定間隔に位置するものが「キノミヤ」として一連の社とされた。
5. 平末鎌初に強勢となった伊豆山の修験勢力が、権現縁起とキノミヤ−伊豆三嶋信仰を接続しようとし、介入・再構成した。

狛犬
狛犬

繰り返しになるが、このうち島嶼の伊豆三嶋大神に関する信仰がキノミヤ信仰と接続していることを示唆するのは「忌宮」の側面だと思う。伊豆三嶋大神の眷属は年末に去る(神津島に集まって会議をする)のだ。『三宅記』にも神々が神津島に集まる様子が描かれているが(だから神津島は神集島の意だと言う)、島嶼の今に繋がる伝承でも年末に神々が飛行して集まるのだから忌むのだとされる。キノミヤの物忌みは、これに起因する神の不在の期間だと私は思う。

伊豆山の介入により、「火の神」であることを語る話として鳥精進・酒精進という次第に改変してしまったが、しかし介入した理由は三嶋信仰との接続を意図してのことであり、キノミヤが三嶋信仰の一系であったからこそだ、と思うのだ。

河津来宮・杉桙別神社には、これらの仮説を検討するためのすべての要素が流入・伝承されており、長い話となった。しかし、キノミヤと伊豆三嶋信仰と伊豆山は切って考えては上手くいかない、ということは間違いないと思う。それどころか、キノミヤの三つの側面を連続したものとして考えるには、この筋を辿るしかないように思える。

今回の話はこの後の伊豆・相模のキノミヤ信仰全体に関する探求への基本スタンスとなる。すべてのキノミヤを辿ってみて振り返って再度見直されることにはなるだろう。この考察がその航路のための指針となっているのか否かは、キノミヤの神のみの知る所だろうか。


脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』皇學館大学出版部
[資料2]『河津町の神社』河津町教育委員会
[資料3]『河津町の棟札』河津町教育委員会
[資料4]『静岡県神社志』静岡県郷土研究協会:編
[資料5]『日本の神々−神社と聖地 10: 東海』谷川健一:編
[資料6]『海と列島文化7 黒潮の道』網野善彦:編
[資料7]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著
[資料8]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著
[資料9]『静岡県史 資料編23 民俗1』静岡県:編
[資料10]『神道集』「二所権現事」(平凡社東洋文庫)
[資料11]『箱根権現縁起絵巻』山北町教員委員会:編
[資料12]『群書類従』「走湯山縁起」
[資料13]『伊古奈比v命神社』「白濱大明神縁起(三宅記)」
[資料14]『大日本地名辞書』吉田東伍:著


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龍学 -dragonology- 2011

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