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キノミヤとしての側面

伊豆半島東側から西相模の(多くは)海側に「キノミヤ(来宮・木宮など)」と称する神社が点在しており、「海より流れ来る神(来宮)」「樹木の神(木宮)」「忌み事を課す神(忌宮)」の意が交錯している信仰である。ここ河津来宮は棟札などに「来宮・木の宮・木野明神」と見えるように古来キノミヤであり[資料3]、そのすべての側面を強く今に伝えている、あるいはキノミヤ信仰のひな形かもしれない社である。

鬼ヶ崎
鬼ヶ崎

まず、このうち「海より流れ来る神・来宮」の側面を見てみよう。河津来宮の御祭神は海上舟で「木崎明神」とともに来られ、河津川河口の南側に突き出している木ヶ崎(現・鬼ヶ崎)に上陸されたという。木崎明神はそのまま岬にとどまり祀られ(かつて来宮の下の宮と呼ばれていた)、来宮大明神は現社地へと遷られ鎮座されたそうな[資料2]。私はキノミヤ信仰には浜に祀られる「来宮」が内地に遷って「木宮」となるベクトルがあるのではないかと考えているのだが、この話もそうであると言えよう。

話により異同があるが、鬼ヶ崎の南のセンゾクという名の岩が両神が乗って来られた舟だと伝わり、大島より来られたのだという[資料9]。岬・湾の海上・海中の大岩を神の乗ってきた舟・神の舟のついた神石に見立てることは西伊豆宇久須の出崎神社、下田の白濱(伊古奈比v命)神社、伊東の新井神社、伊東宇佐美の比波預天神社などにも見られ、この地域の寄り神信仰の典型なのだと思われる。

この河津来宮の「来宮譚」は、実はまとまった話としては伊豆山権現の地主神・白道神の熱海よりの来訪としても伝えられているのだが(伊豆山との関係に関しては後述)[資料2]、周辺各社の伝承との類似を見ていくと伊豆山の介入を待たずして共有されていた話があるのだろうと思わざるを得ない。では、他のキノミヤとの類似点を見てみよう。特に、伊東の八幡宮来宮神社の来宮譚と熱海来宮神社の来宮譚との類似点を指摘しておきたい。

八幡宮来宮神社
八幡宮来宮神社

伊東八幡宮来宮の来宮(式内:伊波久良和氣命神社の論社でもある)の神は、海上甕(亀とも)に乗りやって来られ、海岸の岩倉に鎮座されたが、大層酒好きであり、洋上酒を積み行く船を停めてしまうので、海の見えない現社地に遷された、と伝わっている[資料5]

一方、河津来宮大明神も「御神体を浜の方角に祀ると沖を通る船が進まないので、天城山の方角に向けて祀っている」と伝承されている。御神体は十寸ほどの体形で、ほかに白紙幣束と小剣一振りだそうな(また、本地仏として地蔵と薬師の像)[資料2]。酒を積んだ船を停める、とは言っていないが、そもそもキノミヤの神というのは大酒飲みが祟って失敗された神であるので(後述)、酒好きという点はもとより共通している。

熱海・来宮神社
熱海・来宮神社

そして、熱海来宮の御神体は海上漂ってきた「ボク(木の根)」なのだが、これが「波の音が甚だ耳障りだ」と言われたので内地に遷されたのだと伝わる[資料5]。船足を停める、という話とは違うが、『日本の神々』(白水社)でこの辺りの東伊豆の神社について担当された木村博はキノミヤの内地への遷座という共通項の背後には「潮騒の禁忌」という理があったのではないかと指摘している。

また、熱海と河津の来宮にはさらに類似している点がある。熱海来宮のボクの御神体は潮騒を嫌い、「これより西方の山地に七株の樟の木があり、そこは波の音が聞こえない静な所だから……」と申されたというのだが、一方の河津来宮が遷られた現社地にはかつて「河津七抱七楠」と呼ばれた七本の楠の巨木があったのだと伝わる(来宮・杉桙別神社御神木の境内案内文より)。これは偶然ではないだろう。


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龍学 -dragonology- 2011

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