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来宮・杉桙別命神社

伊豆神社ノオト:2011.11.01

基本情報と式内社である点について

来宮・杉桙別命神社
来宮・杉桙別命神社


祭 神:杉桙別命
相 殿:五十猛命
    少彦名命
創 建:不詳(和銅年間再建・伝)
式 内:杉桙別命神社
例祭日:十月十四より十六日
社 殿:流造/南南東向き
住 所:賀茂郡河津町田中

大概の資料に合祀社として姫宮神社・若宮八幡神社・蔭山神社の名があるが、これらは姫宮神社(式内:佐々原比v命神社)として近年復祀されている。また、社殿(本殿)は南南東に向いているが、御神体は北北東天城山を向いて置かれていると言われる[資料2](共に後述)。

伊豆急河津駅下の道を北北西へ向い、「河津桜観光交流館」の少し先から細い道へ入る。かつての参道の名残りだろう。そのあたりからは既に社叢が見える。駅からは1km弱、くらいだろうか。一帯は田中という字だが、社地は木野という小字だったという。西側に河津川を望み、少しだけ高くなった土地に鎮座される。

式内:杉桙別命神社であるとされ、ほぼ異論はない。諸本一致でまず確定だろうとされる。中世の『伊豆國神階帳』に見る「従四位上 ほこわけの明神」として源頼朝・将軍:藤原頼経・将軍:足利義稙らの再建・修復があったと伝わり、幕末の早い時期から「ほこわけの明神=杉桙別命」と確定社とされたので式内社としての議論はこれにつきる[資料1]

文書記録の有無を別にしても(河津川の洪水に苦しんだ神社なので古記録には恵まれない)河津来宮・杉桙別神社は古来河津一帯の総鎮守であることに疑問の余地のない社だ。南東400mほどの所に復祀された(元地は別)同じく式内確定社とされる「姫宮神社(式内:佐々原比v命神社)」と併せて「奥伊豆最古の社」の看板を謳っている[資料2]

姫宮神社
姫宮神社

これは、考古学的にも根拠のある話で、河津来宮・杉桙別神社の南側・笹原地区の平地からは縄文晩期末から弥生時代中期、古墳時代、平安時代の複合遺跡「姫宮遺跡」が発見されている。特に五世紀から六世紀にかけてのものと思われる青銅製儀鏡、土製の丸玉・鏡、石製の勾玉・剣形品・有孔円板・紡錘車などの遺物は南伊豆町の賀茂の中心と見られる日詰遺跡に同様する出土状況であり、ともに南豆を代表する古墳時代の祭祀遺構とされる[資料6]。南豆は南伊豆町青野川・下田市稲生沢川・河津町河津川の三本の河川流域に文化のセンタがあったと考えられ、そのひとつとなるわけだ。並みいる伊豆の式内社の中でも別格の祭祀地であったことは間違いない。

しかし、地元ではここは「キノミヤ(来宮)さん」であり、杉桙別命と御祭神を伝えてきた訳ではない。近世を通じて「来宮明神・木野明神・木野宮明神」などであり[資料2]、杉桙別命神社の社号となったのは明治二年のことである。おそらく現在でも周辺ほとんどの方は杉桙別命という名は認識していない。先に述べたように式内社としての確定が比較的早いので社伝や周辺伝承も「杉桙別命が……」と語られるが、もともとは「来宮大明神が……」だったと思われる。さらに、杉桙別命そのものの神格・係累などもまったく分からない。伊豆三嶋神話をまとめた『三宅記』にも見ない。

つまり「式内杉桙別命の社だ」ということを言っても、この地にどのような信仰が連綿としてきたのかを語ることにはならないのだ。では、その「キノミヤさん」というのがどのようなもので、河津来宮がどのような側面を持っているのかを見ていこう。


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