下総行:市川

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.08.10

千葉県市川市の神社巡り……といっても、ネズミーランドの浦安のお隣の行徳、江戸川の河口の辺りでありまして、総武本線の方の「ガチな」市川というのではありませんのです。
なんとなればこの日は今世紀最強の猛暑となるかもしれないなんぞといわれておりましたので、まともに行程組んだらキケンが危なかろうという感じ。そんなじゃあ、あれこれ考えつつ歩くというわけにもイカンですよって。
ということでややこしい問題があるわけでなく、目に楽しいところをば軽くくるっと回ってきましょう、とそんな具合であります。丁度そういった「難しいところはないけれど、見ておかないと話題にもできないし」という神社群があるのですよ、この地には。全面的に古い時代のどうこうという話のあるところでもないので、レポの方もたまには物見遊山的にさらっといきましょう。

江戸川区:胡録神社

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スタートはまたお隣地区でありまして江戸川区の端から。ここに「胡録神社」という小さなお宮がある。胡録は「ころく」と訓みまして、これが今回主役の神社群を形成している神社さんなのであります。
近くで道を訊いてみたら「えぇ?それ右いったら、ちいちゃいお宮さんはあるけど……あんた暑い中なにしてんの?」という、えぇ、もの好きなんです、すいません(笑)。ともかく、小さくてもすぐに「そこ」と出てくる認知度なのではある。
江戸ですねい。こういうのも、お宮というのは仮殿なんだ、という東国感覚の延長なんでしょうな。

で、もう先頭でいってしまうが、胡録神社さんというのは要するに第六天のことなのだ。まだはっきりしてはいないが、おそらく明治の神仏分離時に「胡録」の名が発案され、一帯に広まったものと思う。御祭神は概ね面足命・惶根命となる。
こちら江戸川区今井の胡録さんは看板にも「胡録神社(第六天)」とあるし、入り口もかくのごとくだし、第六天社に戻ってしまいそうな勢いであります。
と、今回は主にこのような胡録神社を巡る行程。まぁ、第六天だった、と結論はそうなので、難しい問題はないのだけれど「デエロクさんがナンだかんだと抜かしやがるくせに、胡録さまにおまいりしていねえってえったあ、てえした面の皮だ、なぁ、はっつあんよ」とかいわれそうですので(笑)。
イキでイナセな……鉄人?
いや、これはな、ちゃうねん(笑)。

相之川:香取神社

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そこから旧江戸川を渡ると千葉県市川市の相之川というところになる。もうこの辺で汗がとまらねぇ(笑)。

その相之川の入り口には「香取神社」さんがある。鎮守というのではなく、渡しの守護神だ。房総半島の付け根反対側で遠いような感もあるが、江戸川区の方でもよく香取さんは祀られる。
由緒などは写真を。どうも市川市はこういった小さなお宮にまで、写真のような案内板が完備されているようだ。スバラシイですね。ところで、こちらは「かとり」と訓むのだね(伏線)。

相之川:日枝神社

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相之川の鎮守さんはこちらの「日枝神社」さんとなる。立派ですな。万治二年の創建というから江戸時代に入ってわーっと海側が拓けて行ったのを良く表しているところと言える。
なんというか関東の神社の標準形として登録したいような塩梅ですな。
今回の異体字コーナー。ぱっと出てきたら「国枝?」とかに見えてしまうような気がしなくもない。
こちら一番手前が船霊さんなんですな。お隣二基は道祖神さんと馬頭観音さんで、それぞれ石造物が祠内にあったけれど、船霊さんは御幣だけでありました。船霊さんの紙型とかサイコロとかを地上に祀るということはないのかね。
また別には弁天さんもあり、いつぞやいっていた宝珠持ちの巳いさんも居りました。この作りだと、かなり広く置かれているもののように見えるね。

香取:香取神社

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東お隣は香取地区という。「かとり」でなくて「かんどり」なんであります。その鎮守さんは「香取神社」。こちらも「かんどり」神社。
そもそも香取神宮も「香取とは何か」というと一説に舵取り(かんどり)からだろうといわれる。ここ市川の「かんどり」は、そういった香取の神の御神徳を強調し、水路を行く舟の守護神として祀られるの意なのだ、という。
しかし、それだけでもないっぽい。蟇股に素盞鳴尊が八岐大蛇と激戦中の図があげられているが、これは意味深いように見える。
多くこのモチーフはこうなるといえばそうだが、八岐大蛇が大波と一体化している感が強い。これは津波ではないか。この地は津波に襲われるとひとたまりもない土地だった。大正六年の暴風雨の津波でも軒並み海中に没している。
素盞鳴尊のふるう剣は十握剣。これは色々な名で呼ばれるが、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)もその異名であるといい、香取神宮の経津主神のことであるとして周辺祀る例もある(先の相之川の香取神社にも「刀剣の神」と表現されていた)。つまり、これは襲い来る津波を斬り伏せてくれる香取の神剣、ということなのじゃないかと思う。その願いは強かったろう。
香取さんの狛犬さん。江戸の狛さんですなぁ。こちら阿像なのだけれど、チロッと舌を出している位という慎ましさ(?)。何というか「他と同じじゃ面白くねぇ」という江戸っ子気質がどこも見え隠れする。
境内の庚申さんもナカナカの一品でありますな。文字はもう読めんが。お猿が際立つ。この庚申塔は、市川市内で三猿のある最古のものなんだそうな(寛文五年)。「これはっ!」と反応したオレ様エラいという単なる自慢ですね、えぇ(笑)。また、このタイプは次の胡録さんでも見た。
社殿脇のこの樹木は「縁結びの木」なんだそうな。からまんぼう。これはもう意図的にこうなるように植え育てたというのが見て取れますな。

湊新田:胡録神社

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近く湊新田という地区の「胡録神社」さん。こちらの解説にはまつわる伝説が書かれている。
江戸時代に富津から大船で出た商人が海上嵐にあって一心に神さまに祈ったところ無事行徳の浜にたどり着いて云々、とある。そのお礼に行徳で花火を奉納するようになり……とあるのだが、花火大会の由来であって胡録さんとどう関係するのか良くわからん。胡録さんの花火、ということなんかね。
第六天は多く内陸農村の地神に近い感じで祀られるものなのだが、「海の第六天」が漁師船乗りたちにも信仰されていた、らしい、という線がある。この伝説がそもそも第六天さんに祈った、という話だとすると実例ともなるのだけれど。
ちなみにこちらは鳥居には「胡録」とあるけれど、拝殿扁額には「胡禄」とありますな。実は正規の表記は「胡籙」であり、籙の字は昔扱い難かったので録で代用しているのであります。それ以外にも禄の字を使ったりもしたのだね。
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これはまた流麗な狛さん。彫り深きタレ耳。すばらしいですねぇ、すばらしいですねぇ。狛充?江戸の神社巡りは狛巡り。

押切:稲荷神社

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押切という所の「稲荷神社」さんへ。細い路地に鳥居が出現するので正面からは撮れないことも多い。これはかえって江戸のコマゴマとしたお宮の味かもしれない。
目に涼やかですなぁ。江戸の風流。
こちらのお稲荷さんは本地仏として十一面観音像を御尊体としているのだそうだが、この像が建久年間のものだそうな。どういう経緯かまわり回って三百五十年程前にこの地に来られたのだそうだが、本当ならすごいね。また、そういう話になると稲荷ありきだったのか十一面観音ありきだったのかという点が気になる。海から寄り来る神の伝があったとかじゃないのかね。
御本殿の彫刻が何ともすさまじいところでしたなぁ。しかし、その十一面観音さんやこの御本殿とかも特に文化財とかじゃないのよね。ハードル高いのか市川。
お狐さんもくるんと元気。ちなみに「押切(おしきり)」という地名は、曲流する川の河口が形成する砂州なんかを川が勢いのある時に押切って海に流れ出ることがあるようなところにつく名だが、ここもそうだろうか。
色々とそういう海を感じさせるところがあるのですよ。こちらは境内社さんなんだが、参道脇は溶岩が敷かれている。
これがですね、これ亀ですね、海亀。ということは溶岩が波を表しているということになる。岩波だ。そうならこのお社は弁天さんか竜宮さんかと思うと、これが浅間さんなんですなぁ。この岩波は富士塚にあたるのだ。
後ろから見るとこんな。どう見ても波である。浅間さんのまわりをこういった海の意匠で形成することもあるのだね。これは「富士塚」として造られたものなのだろうか。正しくそうなら「こういう例もある」と引き合いに出せるレベルだと思うが。
道行きに……これは力石じゃないかしら。普通の民家(商家?)の空き家といった感じの、ただの軒先だが。神社などに保存しきれぬ程力石があった土地のはずではある。

伊勢宿:豊受神社

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そして今度は伊勢宿という地区に入りまして鎮守社の「豊受神社」さんが鎮座される。このあたりは豊受神社というのが多いが、稲荷ではなく神明さんである。近世は皆普通に神明社だったんじゃないかな。
同じ江戸湾岸でも東京都下の方は神明社がこぞって「天祖神社」の名になったが、千葉県側は豊受神社になったのだ。名に合わせて伊勢外宮の豊受大神を祀ることとなったが、もとからそうだったのかはよく分からない。こちらは元禄年間の建立だそうな。やはり神明社だったがいつ豊受神社と改称したのかは不明とある。伊勢宿の名のとおり、実際お伊勢参りへと行く船の出る所でもあったという。
「にいっ」という狛犬どの。一応吽像であるようだが、阿でも吽でもなく「にいっ」像としかいいようがないですな(笑)。
御本殿を見ると神明さんなのが良くわかる。どうものこの辺のお社は横から後ろにこのような庇を追加するようだ。トタンとかなので意匠じゃなくて社殿保護のようですな。
境内に町内会の納めた弁天さん兼お稲荷さんといった祠があったが、手前写真左下はこれまた力石でしょうな。こうして半分埋め込まれているようなことも多々あるです。
行徳猫。白はもう暑さにすべてをあきらめたような顔で見事なシカトっぷりを発揮(笑)。ブチの方は一応ヨロヨロ立ち上がって寄ってきたが……
十秒ともたずにぺちゃっと(笑)。はひはひはひ、とおなかがぺこぺこしていてナントも暑そうな。いや、あたしも暑いんだが。ていうか人間も周囲が体温越えるようになると口で息しはじめますよね。犬とか猫みたいな、そういう体温調節機能が人にもあるのだね、と変な実感をしております(TΔT)。

関ヶ島:胡録神社

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次は関ヶ島という所に行きまして、また「胡録神社」さんが鎮守さん。ここは正規の「胡籙」の表記で登録されてるのかな。もう、良くわからんので一般に「胡録」で統一するが。
ここが「関」ヶ島というのは、江戸の人が成田や香取、そして伊勢へ船出する際の出発点であったから。行徳領は江戸の内のようだが、一応國境でありますので関があったのだろう。
小ぶりとはいえ獅子山の狛さんも居る。なんでもあるのが江戸。そのようにあちこちお参りに行く人が帰ってくるところでもあったので、色々な地方の様式が持ち帰って来られるところでもあったろう。
で、胡録といい胡籙といい、第六天だったというのはいいとして、そもそも胡録(ころく)とは何ぞやというと、各所色々な理由を語りはするのだが、概ね符会の言に見える。土地を拓いた武士たちの使った矢を納める「やぐない(これを胡籙という)」にちなんでとか、名産だった胡粉と第六天の六を合わせてなどという。
そんなであって、はっきりした理由は語られないのだが、これは建前として正規の由緒にできない話なのであると思われ、すなわち第六天を大六天とした時の「だいろく」に対して「ころく」といいはじめたのだと考えて良いだろう。要は「小六」さまだということだ。
ここ関ヶ島の胡録さんは額に「胡籙天神」とあり、「大六天神」に対する「小六天神」なのであろうことが伺える。ちなみにこちらは天正三年の創建を伝えており、第六天信仰のはじまりそのものという点でも近世以前を語るお社であります。

この件には第六天信仰においてこの辺りでは「大きい」というところにイメージの主軸があったことを示している、という重要性がある。
うちの第六天追求は、現在主に第六天とダイダラボッチ伝説に交錯があったかもしれない、という点が激アツとなっている。ここで「でーろくさん」というのは何はともあれ「大きいものなのだ」というイメージがまずあったのなら、その重なりに繋がるイメージであると考えることもできるだろう。「でーろくさん」と「でーらぼっち」の交錯は、ここから南、内房の先の方で色濃く起る。

本行徳:神明社

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江戸行徳領の中心地、本行徳に入ると「神明社」さんが鎮座される。ここは豊受神社とはいわないが、豊受大神を御祭神としてはいる。どういう差なんかね。
本行徳にはもう一社神明(豊受)さんがあって、そちらが行徳の由来を語るお社なので、こちらはそこよりは新しいのだろう。創建年代不詳だが。「四丁目の鎮守」と斬新な表現がされている(笑)。
参道のイチョウなんかは立派で、そうそう新しいお社というわけでもないと思うのだが、よく分からない。うーむ、なんでまた神明さんばかりこんなにあるのか。「瀬戸の塩」との繋がりが深いはずなんだが、そういった側面はパッとは見えんね。
こちらは狛犬さんが見目麗しい。あい〜ん(笑)。しかし、どう見ても江戸後半くらいの狛どのなので、この神明さんもその辺りにはあったのだろう。
「だっは〜!なんちゃって〜」
とかいうお顔にしか見えんが(笑)。
力石も。「新太郎」と名が入っている。マスターか、この石のマスターなのか。

本行徳:八幡神社

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すぐお隣は「八幡神社」さん。こちらは「三丁目の鎮守」とある。もうひとつの本行徳の神明さん近くの自性院が別当だった、という以外はよく分からない。
写真左外になるが、市川市の保存指定樹木になっているイチョウなどもあるので(行徳はイチョウの大木だらけだった)、こちらも江戸の行徳の歴史とともにあったお社ではあるだろう。
亀さんがスバラシイのですね。見とれてしまいましたのことよ。墨の濃淡が表現されているような木彫りで。
参拝すると直上にこの木獅子さんが居る。こう作られて構えられると、なんだか謎の生物だわね(笑)。

さて、少し行徳そのもののことも解説しておこう。江戸江戸といってはいるが、一応地域としては近世も下総國葛飾郡行徳であります。葛飾の浦といって安房・上総・下総・武蔵四國の入り合い浦で、真間の入江とか袖ヶ浦とかとも呼ばれた海。もともとそのようにどこに属するというより共有地(浦)の色合いが濃かったようだが、ともかくかつては浦安の方から総武本線の方まで広く「行徳」で通った。
で、ここは戦国時代から塩が造られる土地だったが、徳川家康が関東に入って、直轄の塩田とした事により栄えた。「御軍用第一之事御領地一番之宝」ということで幕府に保護された要は「公儀御用」の塩田ですな。常に一定量の塩を蓄えていないといけなかったので、不作の時は瀬戸の塩などを買い込んだりしてまでそれを保ったという。
昭和初期頃まで塩が造られていたというが、実際には大正六年の大嵐による津波で「総武線より南は一面の海と化した」という惨状となったようで、ここで塩田の歴史は終わった、ということになるだろうか。

本塩:豊受神社

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ということで「塩」にまつわる地名などが並んでいるのが行徳領でもあって、本行徳のお隣には「本塩」という地区がある。昔は行徳新田といって、最初期に開発された塩田で、塩焼町ともいった。本塩の法善寺は一名「塩場(しょば)寺」とも呼ばれたそうな。
その法善寺のすぐ隣にあって本塩地区の鎮守であるのがまた「豊受神社」さん。こちらも詳細不明だが、どうも本行徳辺りは神明さんが第一であったようだ。
しかし宮本常一先生なども「塩の神さまというのはいない」と指摘されておりましたが、確かに「塩田だから」という神社はないですな。鹽竈神社さんがその位置にくる、とかいうのは結構ありそうなのだが、境内社にも見ない。
実際塩を作る「塩釜」が海に向ってずらりと並んでいたのではあるが。鹽竈神社さんが製塩の神さまになるわけではなかった、ということを示す場所ではあるだろうか。どうなんですかね、狛犬どの。

本行徳:神明社

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本行徳に戻りましてまた「神明社」さま。境内解説に「神明(豊受)神社」とあって、これはもう同じものという感じなのだろう。こちらが行徳のはじまりを伝えるお社で、総鎮守格になるのかな。
江戸時代となる少し前あたりに金海法印なる人が(徳長なる山伏であるとも)この地の開発に努め「行徳さま」と敬われたことから土地を行徳というようになったという。その行徳さまが伊勢内宮の土砂を持ち来られて伊勢神宮を勧請されたのが、この神明社の元宮になるそうな。
ここにこうして大きくお社が構えられたのは寛永年間のことで、それまでは中州にあった小祠であったそうな。ということで、狛犬どのもでっかいですな。ご立派なのであります。
地域総鎮守の狛犬どのの風格であります。

で、三年に一度という大祭の神輿の練り(揉む、という)がちょっと面白いので、境内解説のまま引いておこう。

「何の飾りもない白い装束に身を固めた二十四人の男たちが、神輿を片手で高く差し上げ、一回転、次にほおりあげる。そして最後に「地すり」といって握りこぶしひとつあくくらいまで地面すれすれにもっていき一回転する。この動作を繰り返します。」
だそうで、この地域でしか見られない独特のものだとある。五百キロの神輿だというが。そんなパワフルな男衆が居らんといかんわけで、力石もずらりと並んでおります。いやぁ、リアルな重さを感じさせる大きさですなこれは。

下新宿:稲荷神社

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本行徳を抜けると下新宿という地区になり「稲荷神社」さんが鎮守さんとなる。寛永十二年の創建というから先の神明さんが大きく遷座再建された時と同じだ。
また先の本行徳の大祭の神輿も、神明さんからまずこのお稲荷さんに渡御されるということで、縁の深さが伺われる。
先代のお狐さんが手水のところに。ちょっとこの「ニタァ」というお顔はキてますな。もののけ入っております(笑)。
またあちこちにもお狐さん飛びまくり。こちらお屋根のお狐さんもなんか……お顔が……なんかキめちゃってます?
拝殿上の木彫りのお狐さんも素晴らしい。江戸といやあ稲荷です故に、何かと工夫を凝らすのであります。「ケーン、ケーン」と鳴きそうな。行徳狐?行徳地区に狐は居たのだろうか。
反対側も。ていうかこれも一種の絵馬なんかね。
狐と来れば狸。稲荷さんをあとにの道行きに、ものすげーカップルが居ったぞ(笑)。お酌している娘の方は人なのか、狸なのか。

河原:春日・胡録神社

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さて、もう日も落ちまして、旧江戸川沿いにやってきました行程も、江戸川放水路の橋でおしまいであります。ここはその名も河原といい、「春日神社」さんと「胡録神社」さんが並んで鎮座されている。
胡録さんが境内社、というのではなく、二社並んでいるという了解で良いようだ。解説も両社分立っている。もともとここには胡録さんがあって、放水路ができる地にあった春日さんが遷されたようだ。大きい方が春日神社。
河原の胡録神社さんも寛永十二年の創建とある。ここまでは本行徳の神輿は来ないようだが、やはり同一の地区整備の一環で建ったお社なのかね。もっとも河原の辺りは戦国時代から武蔵岩槻の方へと塩を送る塩道「岩槻道」の出発点だったといい、あるいはこの辺りの方が塩の土地の歴史は古いのかもしれない。

といったところで。第六天改めの胡録神社さんとうお社が並んでいるのを見る、というだけの目標だった市川市行徳エリアでありました。胡録さんはこれがすべてというわけではなく、市川駅周辺や北は松戸の方まで、あるいは南千住の方にもある。
んが、行徳という特殊な地区にあって、神明(豊受)・稲荷・香取・日枝・八幡といった顔ぶれに並んで胡録(第六天)さんがあるのだというのがよく見えるケースであったわけです(数でいえば神明・豊受神社に次ぐ三社鎮座なのだ)。胡録という名に転じた経緯も面白いが、第六天そのもののこととしても、こういった鎮守の並びに普通に加わるような存在だったのだ、というのが今に見える貴重な土地であるといえるだろう。第六天鎮座の例として、真っ先に引き合いに出すべきところであるように思う。

補遺:

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下総行:市川 2013.08.10

惰竜抄: