相模伊勢原行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2011.01.10

さて、先日はTLに某アニメの話題がつらつら流れていたのであたしも調べてようつべでOPとか見ていたのだけれど、大変素敵でかわいらしいOPだったのでくりかえし見ちゃっていたのがあだとなり、本日はエラい目にあった(笑)。
♪ つきぬ〜けた〜、あ〜おいそら〜、さあ〜でかけよ〜 ♪ とまあエラい上天気だったので一日中空見るたびに「かみちゅ!」のOPがオートリピートというハメに。長々歩く方はご承知のように一定のフレーズが脳内でヘビロテになるあれです。
ちなみに写真の山は相模大山で、今日は早朝から一日中伊勢原市大山周辺を回っていたのでした。さらにちなみにこれまでの上天気時の「ヘビロテNo.1」は何気にトトロの「あるっこ〜、あるっこ〜」だったのだけれど(笑)、「かみちゅ!」は猛追しそうだな。
7:00am 大山を朝日が照らして本日の神社巡りスタート。

まず東大竹というところの「八幡神社」へ。ここは縄文期の敷石住居址など出ておる大変古くから住み良かったであろう高台。ここがこの後の相模三宮比々多神社の地に勝るとも劣らない大山遥拝の地だったんじゃなかろうかと思ってトップに。
神社自体は江戸時代勧請という普通の「八幡さん」なのだけれど、鳥居くぐってすぐ右にこんなものが。うほぅ。資料上には全く載っていねぇ。まったく神社というのは実際来てみないと分からんものである。
ちょうど境内のお掃除にこられていた方(地元の一般の方)にたずねてみると「なんだかはワカランですが……お祭りの時は神主さんは一番にここをお祀りします」なんだそうな。にゃるほど。「ここがこの土地の本当のアレなんじゃないですかねえ」と言われたのが印象的だった。「本当のアレ」なのだ。
そもそも「東大竹」という地名の「大竹」はこの辺では「御嶽(みたけ)神社」がある土地名になりがちなものである。御嶽は大山を指すので大山遥拝の土地なんじゃあと思ったのだがあにはからんや。実際古い小字に御嶽とあったらしい。犬も歩けば。

少し南下したところの「菅原神社」。この辺はお隣平塚市との境がものすごく入り組んでいて気がつくと平塚にいたりする。この菅原さんも一時平塚の神社に合祀されたものを伊勢原側に再祭祀したものという。
その菅原神社にも境内社に御嶽神社があった。やはりどうもこの辺りは大山と縁が深いようだ。朝一から勘働きがクリンヒットで上機嫌なあたくし(笑)。

そんなこんなで上天気上機嫌で脳内はかみちゅで(笑)、伊勢原市街に戻ってきまして「八雲神社」。天王・稲荷・神明三社を合祀したもので天王社から八雲神社と。境内社に「毘沙門堂」があったりと昔日を偲ばせるところである。
本殿裏に石祠等々が。伊勢原は大山詣の土地だけれど、大山道の道標に石造物があれこれ置かれるので、その類いが非常に多い。村の信仰と道標で道祖神も庚申塔も倍に増える。そしてなぜか神社に移されたものは本殿裏に並ぶのが伊勢原スタイル。
う、ていうか今日7時から16時まで一度も腰掛けずに歩き回るという暴挙に出たので、なんかもうダメだ(笑)。眠すぎて……次の面白い再創建の由来のある「大隅天神社」のことが書けななな……続きは明日!(爆)。

さて、昨夜の続き。東大竹の方から北上しまして、東海大病院の西側に来ております。
おや、道端に小さなお宮が……と思ったら目指していた「大隅天神社」でした。単立でどこの管理かも分からない系ですが、社殿の中に丁寧な由緒が書かれてありましたな。この辺では十二柱神社に次いで古い江戸時代以前からの神社だったとある。
まわりには梅が沢山植えられ、中には歌会で詠まれた歌らしき短冊が沢山掛けられている。地域の方々が大切にしている神社なのでしょうな。そしてそれもそのはずでここは明治の合祀期に一度十二柱神社に合祀されているのだけれど、故あって再度創建されているのだ。
由緒によると合祀後、神社を管理していた家の引き戸が人がいないのにガラガラ開いたりと怪事が続いたのだそうな。これは天神様が元地に帰りたがっておるのに相違ないと皆思って再度神像をこの地に引き取り社殿を造営したそうな。このような話は明治の合祀令の後各地に沢山見られる。
場所によっては「祟り」で疫病が流行ったり洪水が起ったりと大事になったと伝えるところも少なくない。「合祀と復祀の怪異譚」とか追いかけたら面白いのではないか。
そんなことをつらつら思いながらふと目をやると近くに「咳止地蔵」なるものが。すわおしゃもじ様かと思って近よってみますとそうではないようで。近くの川から水を取る「堰止め」転じて「咳止」となったそうな。色々考えるものである。
背後の丘は「ふじやま」と呼ばれ、大山詣の際の道の分岐の目印になっていたそうな。こうなってくると土地のものに加えて大山に参詣した遠方の修験の人が建てたものとかも増えてきて「何でもあり」状態に突入して行く。
その「ふじやま」の北側に「熊野神社」が。もう大山登山の道中安全の石仏だの何だので「いろいろ」な世界だ。神仏混淆がどんなものかというのなら近くの信仰の山へ行ってみるのが早いのではないか。

この熊野神社は電波塔の脇にあるのだけれど、パッと見電波塔関係の用具小屋かなんかかと思った(笑)。今まで見た神社の中でもトップのワイルド神社である。これ拝殿なんですよ。裏に別棟の本殿覆殿がある。本殿は木造でちゃんとしてますが。
お隣の境内社の「事平神社」の方がなんか妙な存在感がある。しかし伊勢原の神社の「境内社:こんぴらさん」率は妙に高い。流行があったのか。

そこから東名沿いに西へ転じまして、上粕屋の「五霊神社」へ。ザ・逆光。この本殿だけ残ってまわり覆ってます系の社殿はちょっと逆光だと全然写らない(TΔT)。この周辺「五霊神社・御霊神社」が頻出するのだけれどこれはまたいずれの機会に。
ここでちと話題を転じまして「根府川石」。大山周辺は寺社だらけで併せて石材屋さんも多ございまして、根府川石が並んでいたので。根府川とは小田原市の西の端にある海沿いの土地。そこの石が写真の根府川石。
表面が赤褐色で、削ると白灰色になるので、字を彫ると読み易いものができる。ですんで石碑の素材として重用される訳です。が、これが縄文時代から良く使われていた。縄文人は字なんか彫りませんので「敷石住居」の床材として重視していたのですな( http://bit.ly/hjCxKG )。
上に引いたサイトの平塚岡崎とは昨夜の東大竹の近く。東大竹八幡にも敷石住居址が出たと書きましたが、そこにもこの根府川石が敷かれていた。ここから根府川といったら普通に歩いても丸一日かかりますが、こんな大石運んだといったらエラい話ですな。縄文の住居へのこだわりも侮れないものがあります。
上粕屋は太田道灌最期の地であって、墓がある。首塚が下糟屋にあるので胴塚か?地図上近くに「太田神社」の表記があったがこれは道灌にインスパイアされた(?)教派神道系の道場の様で、古くから道灌を祀っていた、というものではない様だった。
近くの「七人塚」は道灌を守って楯となった七人の武士を祀るという塚。頭のかけた石仏に丸石というのはこうして見ると「間に合わせ」というより「これが良い」というものなのかもしれない。

その上粕屋の鎮守「上粕屋神社」ベースは日枝神社で、かつては「山王宮」だった。ここも良弁の開基と伝わる。大山登り口寺社の一つですな。
このポジションにデカデカと亀がおるのはあまり見ないなぁ。なんかいわれがあるのだろうか。
近くの道祖神さん。もうお正月飾りが納められている。今週末はどんど焼きである。ちなみに伊勢原は小田原のように双体道祖神ばかり、という訳ではない。石碑・石祠と三パタンが均等にある感じかしら。
大山道の道標としての石造物とはこんな感じ。これは青面金剛の庚申塔。道祖神・庚申塔・天社神・地鎮塔・埴安姫碑・二十三夜塔……等々何でもござれだ。石造物マニアには伊勢原秦野の大山道沿いはスポットである。
そして道行きに衝撃の物件が。なんだ、これは。鳥居まである石祠だったようだが、その石祠の据えられていた場所に棕櫚が。これは明らかに祠の代替として棕櫚を植えてるのではないのか。
やはり棕櫚は「飾り」ではないのではないか。道祖神やサエノカミ、神域の境界として植えられているのじゃないかと(あと普通に土地・田畑の境)言ってきたが、もはや予感ではすみそうも無い。各神社の棕櫚の植えられてるパタンとかまとめねばならん。
でもなぁ。前にもつぶやいたけど、これそうなら今まで誰か絶対やってるはずなんだよなぁ。気がついたらそうとしか見えないんだもの。誰か棕櫚と信仰の関係の論文とかご存知の方いません?
そんなこんなで道行き2/3。さらに内容的にはもっと濃いいのが続きますということでさらに明日へ続くのでした。
さらに月曜の伊勢原行の続き。上粕屋神社から相模三宮の比々多神社へ行ったものの、まだまだ絶賛初詣モードでございまして、そそくさと参拝をすませて退転。
実はここが予定の分かれ目で、「もし比々多さんが落ち着いてる様だったら〝比々多神社元地(があるというのだ)〟をたずねる→相模三宮ディープ!」 or 「まだ初詣モードだったらオジャマにならないように撤退→別経路へ」と考えていたわけです。

そんなこんなで「別経路」の方で「白根神社(白根神明社)」へ。元神明社であるという以外『神奈川県神社誌』でも「由緒:不詳。」で解説が終っているという神社。駄菓子菓子。写真の如くの道が通っている。
地図で見ても明らかに長々とした参道を持っていたことが分かる(今は生活道だけれど)。三宮からも近く、往古はかなり揮っていたのではないか。三宮周辺の神社は三宮の摂社として創建されたものが多い。ここはどうだったのだろうか。
とまあ由緒は不明なのだけれど立派な雌雄のイチョウが社頭に聳える。先月とか来ていたらイチョウの葉の絨毯状態だったかもですな。
社殿の前にかつての御神木の切株が。樹齢五百年を数えた杉だったそうな。頭に笠帽子がかぶせてあるが、昨夜の太田道灌公のお墓もそうでしたな。「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」の一種ということになるらしい。

南へ下りましてこの日の隠れ第一目標だった「木下神社」へ。木下(こかげ)と読む。この読みが引っかかってまして。この境内の樹木は「木陰」としたいがためにいっぱい植えたのかしらね。しかしあたしは違う意味だと思って来たのだ。
伊勢原から東の厚木・座間には「蚕影(こかげ)」神社という養蚕の神社がままある。単独ではあまりないが、色々な神社の境内社にたくさんあるのだ。この木下神社も実はそれなんではないかと睨んでましての参拝。
資料の上では江戸時代には三宮の御霊会の御霊神社の神璽が置かれたとあり、三宮分祠の観がある。天明玉命・稚日女命という祭神も比々多神社の祭神だ。しかしその記録も江戸時代のもので、それ以前はどうよ、という見込み(庭内社であったという)。
んが、特に養蚕を思わせるものはなかったですなぁ。残念。でも、例によって社殿真裏には伊勢原スタイルで大山道標の石造物が集まっているのだけれど、これがバリエーションに富んでいて面白かった。
写真左の六角柱の地鎮塔(六角の社日塔?)はその分布を調べようと思っていた物件だ。お隣秦野の落幡ではこの石塔が「地神社」として神社庁に登録されていたりする。分布としては秦野より伊勢原に多いらしい。発見その一である。
何とも色々なものを建てていたものだ。何か「隣りの登り道」より面白いもの、人を惹くものをと競ったりしたのだろうか。

お次はもう伊勢原も西の外れの方へと進みまして「雷電神社」。何とも変わった御社殿だ。大体茅葺き屋根をそのまま銅葺きにすると不思議な形になるが、ここもそうだろう。
拝殿と覆殿の並びもなんか妙だ。あまり目にした記憶がないのだけれど、こういったちぐはぐな屋根の並びというのはなんなのだ?これはこれでこういうものなの?
さて、それはともかく。ここは別雷命を祀り、由緒では三宮創建と同時期に摂社として勧請されたという。本当なら奈良朝以来の古社ということになる。んが。
これが西相模にあったらまず間違いなく伊豆山神社に縁のある神社ということになるだろう。伊豆山権現の地主神は雷神であるとされ、これを祀る際は別雷神の雷電神社、となる(小田原にある)。
ここも修験的になんかその繋がりなんじゃないのと思ったりもするのだが。で、もうおなじみの伊勢原神社名物本殿裏の石造物群など見学しようと裏手へ行きますと、ここは裏ではなく横手に並んでいた。あら、と思いつつ真裏を見ますと……
なんじゃこれは。このせいで石造物は脇にあったのか。全く本殿覆殿の真後ろから……これは道を通しているのか?こんなものを見たのははじめてだ。この方向には(おおまかには)三宮比々多神社がある。三宮の神が……やってくる道なのか。
よもやの謎展開に頭をひねりつつ、もう本当に伊勢原の外れというかほとんど秦野鶴巻温泉のすぐ近くの「箕輪駅跡」へ。「駅」とは奈良・平安期の駅のこと。当時の東海道の要所だったのだ。下っては矢倉沢往還もここを通っていた。

ここには「神明神社」がある。これまた『神社誌』では「通称大神宮と称し当時の鎮守として郷民に崇敬厚い。」……以上の解説である(TT)。しかし箕輪駅の鎮守であったとすると無茶苦茶古いという可能性がある(神明社ではなかっただろうが)。
古代箕輪駅の鎮守といえそうな神社は他に近辺にはないし、この神明社自体一段高台にあって平野を見下ろす立地。神社としては一等地のものだ。多分箕輪駅鎮守だと思うんだけれどね。
さて、ここで伊勢原行は終了。まだ二時くらいだったのだけれど、実は秦野の方で大変気になる記録を見つけて行ってみたい一社があったのだ。で、鶴巻温泉から秦野へと小田急線で移動しまして、そこからバスで寺山へ。ちょっとついった休憩。
続き。気になる記録とは「社護神社」についての記録。社護神社は秦野の西側に神社庁管轄のものがあり、周辺では屋敷神「オシャゴさん」として祀られていたりもする。諏訪から来た人が持ち込んだのだと伝わり、風神であるとも井戸神であるともいう。
これが秦野の東側の寺山にもあるというのだ。それは良いのだけれど、その神格が全く異なっている。寺山の「オシャゴさん」は「子どもをあやす神さま」だと言うのだ。
記録によると、寺山では子どもが夜泣きをするとオシャゴさんから「おもちゃ」を頂いて来て子どもに与えたという。オシャゴさんはおもちゃを通して子どもをあやしてくれ、夜泣きも止むのだという。
そして子どもが大きくなっておもちゃが不要になったらオシャゴさんにかえす。または、新しいおもちゃをオシャゴさんに奉納する。
そんな具合で子どものおもちゃでいっぱいの「社護神社」が寺山にあったというのだ。「あった」のだ。もうかなり昔の話ではある。この記録の「社護神社」が果して今もあるのか(無論神社庁などの管轄外、地図にも無い)。それを調べに行った次第。
しかしまあ、その記録には「寺山」とだけしかなく、寺山と言っても広うございまして、いずれ聞き込み調査としても一回じゃダメかもなぁ、と思いつつ。とりあえずは現場百遍と半時ほどうろつきまして、ま、たまたまで見つかるわきゃないな……と、近くの農家の方に尋ねてみましたところ……。

「社護神社?あぁ、そこの?」とおっしゃる。なんと!あたくしはあとほんの20mのところに来ていたのでした(笑)。いやいやあたしの神社センサーもかなり強まってんじゃね?
しかし……社護神社さんはもう「お役目を終えた神さま」でありました。高度経済成長期以降は子どものおもちゃの共同体でのシェアなど木っ端みじんでありますのでさもありなん。
お話しを聞いても確かに記録の通りの風習があったとのことだけれど「いや、今はもう、ねぇ……」とのこと。かつては社殿内にいっぱいあったというおもちゃも今では片隅に小さな太鼓が転がるのみ。
子どもらの神さまだから御神輿も子ども神輿。でも、これももう何年もこのままであるようだ。
ここも今お手入れをされておられるご老人が去ればなくなってしまう神社なのだろうか。その前に来ることはできた。でも、あたしは間に合ったのだろうか。間に合わなかったのだろうか。
この社護神社は興味深い神社だ。「おしゃもじ様」の風習や、厚木の方の「夜泣きを切る木太刀」を貰ってくる風習などにも繋がるかもしれない。が、帰り道はあまりそのようなことは考えることができなかった。
ポイントオブノーリターン。われわれはもうそのポイントのあとにいる。「かみちゅ!」で賑やかに開幕したこの日の神社巡りでしたが、最後は「その一点」のみがのしかかる終幕でした。まる。

相模伊勢原行 2011.01.10

惰竜抄: