南豆行

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2010.11.23

あ、さて。本日は……くたびれた(笑)。ちょっともうマジ足にマメできるくらいの勢いなので、能書きを垂れる余力はなし。それは明日。今日はもうあまり考えずに(頭の方もパンク気味)、謎の印象派で垂れ流し御免の巻で。
実に、実にあたしはこの光景をこそ見たかった(感涙)。かつては海から舟でアプローチするしかなかったという伊豆下田田牛(とうじ):龍宮神社下の龍宮窟。
かつて一瞬話題を呼んだ謎の施設の実態。「みくら」ですね、えぇ。
その「三倉山」(右)。神道考古学の発端となるインスピレーションを与えた山だという。確かに三輪山っぽい。
あ、ご苦労様です。えぇ、何でここまでリアルに造ってるのに足が途中で?
石祠の極み。「よう来たね」と言ってくれているとありがたい。
今日回ったエリアではこの様式が拝殿のデフォルトだった。最初は神楽殿かと思ったくらいだ。南伊豆町:七夕神社。
鬱蒼と茂る樹々の中に。南伊豆町:七夕神社。
古木の貫禄。やはり樹木もここまでくると「ナマモノ」っぽいわよね。脈の一つも打ちそうな。南伊豆町青市:三島神社。
これが本当の石頭。
「鬼女手石御前の祠」なのだ。「手石」の地名の由来ともなる鬼女伝説。あなおそろしや。いや、写真は加工じゃなくて本当にこんな雨での暗さ具合だったのです。
いや神域ですなぁ。この辺りは神津島から阿波姫系の上陸のあった所。何でなのかも良く分かった。南伊豆町:月間神社。
ま、そんな訳で南伊豆町にも突入の一日だったのでした。もう、今日はぐでぐでモードに入ります(笑)。
昨日の南豆行の模様スタート。
熱海駅 6:30am ……雨なのになぁ。馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの…と言いたくもなるのだけれど、いいや、止むね!ということで。

ホラ止んだ(笑)。下田駅ではまだぽつぽつ降っていたものの、小一時間歩いてついた下田市吉佐美の「八幡神社」社頭では雨も上がってめでたく参拝スタートなのです。
さて、ここは「八幡神社」なのだけれど、実は伊豆三嶋信仰にまつわるめちゃくちゃ大変な所なのだ。本殿三座が皆別々の式内論社となっているという(笑)。一つ一つ解説するとエラいことになるのでそれはいずれ。
この日は「竹麻三社」という式内社を巡ることが目的。これは神津島の阿波命と子の物忌奈乃命と無論三嶋大神を半島側から遥拝するために造営されたというもの。その「竹麻神社」が三社に分かれたので「竹麻三社」という。この吉佐美八幡神社はその内の阿波命を祀る一社と考えられている。
拝殿がこんな風にがらんとした講堂のようになっているのだ。ここでは「ふーん」と思ったくらいだったが、この日一日回った神社が皆そうで、南豆の基本フォーマットなのだということがこの後分かる。
ここ吉佐美(きさみ)は后宮(きさいのみや)の転訛とも言われる。こちら御本殿覆殿。ここに伊豆三嶋ファミリー「最恐」の后神・阿波命がおる訳ですな。えぇ、どうぞよしなに、えぇ(いえ?全然ビびビビってなんかないよ?)。
メモ。吉佐美八幡本殿の一座「若宮」は足立鍬太郎の『南豆神祇誌』によると「貞享元年 現(見)目大明神寶殿建立」棟札があったという。そうならエラい話だ。ここは三宅系ということになる。『式内社調査報告』では多祁美加々命だとあるが。
南豆行続き。吉佐美から小半時ほど歩きまして田牛(とうじ・とーじ)の浦へ。利島〜神津島迄一望の巻。いやもう神子元島(右端)なんか泳いで渡れそうな感じですよ。

その田牛のこれまた八幡神社。ここは式内論社とかではないけれど、そもそも「田牛」の地そのものが超重要なのだ。
港の南西にある遠國島というところでは、白浜神社同様の火祭りが行われていただろう祭祀遺構が見つかっている。その遠國島にあった遠國祠が今はこの田牛八幡に合祀されているのだ。
ところで出ましたなぞの石塔その三。片瀬の片菅神社のものと同様だ。しかし拝殿前じゃなく本殿との間に。ナンだこれ、燈籠で良いのか?さりげなく写真右上になぜか出ている木鼻もなんか不思議。
ちなみに片瀬白田の片菅(片管)神社拝殿前はこんな感じ。
田牛の港。あの向こうに遠國島が。そのルートは海沿いに南伊豆町手石湊まで続くのだけれど、この日は内陸側のルートであれこれ回る予定なのでまた今度、ということで。
南豆行。吉佐美まで戻ろうとしますと謎の鳥居が(事前情報無し)。む、「危」とな。いやでも「立場上(?)」ゆかぬわけにはいかぬのですよ、はい。
※登ってみましたら脇から緩いスロープで登る坂がありましたの巻、でした(笑)。

登ってみますと小祠が。「龍宮神社」と中のお札にあった。海の方ではなく港の方を向いている。以前指摘した港を挟むように見守る(見張る)神社かもしれない。
その龍宮神社の下にこれまた事前情報無しのアヤシの「龍宮窟」とな?「観光名所」丸出しデザインなので、一瞬「別に行かんでも?」と思ったが、ま、せっかくなので…と下りてみてあたしは目が飛び出ることになる。
ふぅおおぉおぉ〜!これは…いや、これだっ!この景色が見たかったのだあたしは。伊豆を回るうちにこの地の海人族の太古の信仰とは海沿いの海蝕洞窟の奥を海上から祀ったものが本来ではないかとあたしは思うようになった。まさに、これだ。
この龍宮窟もかつては海上から舟でアプローチするより無かったと書いてあった。陸側から通じるトンネルは現代になって造られたもの。そしてこの海に向う横穴の先、水平線の彼方へ目を凝らして、あたしはさらに仰天する。
島影だ。そりゃその方向には伊豆七島が並んでるのだから…と言われそうだが、そこに立ってみて分かる感覚というものはある。立ち位置がどうとかそういう問題じゃねぇ。この龍宮窟は「あの島(神津島)を見るため」にあるのだ。
いやはや、田牛恐るべし。しかし遠國島の祭祀遺構といいこの龍宮窟といい、これだけ島嶼を祀る痕跡を持ちながら式内論社の推定地に名があがらないのだろうか。どれかが該当するのではないかと考えるべきではないか。

南豆行。田牛をあとにしまして一旦吉佐美に戻り、そこから三倉山の東側を北上しましてこちら大賀茂の地の式内:伊豆奈比咩命神社の論社である「走湯神社」。「そうとう」とも「すとう」とも。
ここもこんな感じの拝殿…拝殿なのか?また、往古は伊豆ヶ崎とか姫子淵とかの地名が周囲にあったそうな。いずれ伊豆山神社との縁故だと考えられている。
ま、いずれにしても「ここが伊豆奈比咩命を祀る神社」なのだ。伊豆奈比咩ファンの皆様以後お見知りおきを(笑)。しかし鈴もお賽銭箱もこちら本殿覆殿にあり、手水の位置から言ってもどうも参拝はこっちで、ということのようだ。
境内中央がうっすら円く盛り上がっている。土俵ですなこれは。写真右奥に俵綱が。お祭りの時だけ設えるのだろうか。

再び136号線に戻りまして、いよいよ南伊豆町エリアへと進入。三倉山の西側麓に位置します「七夕神社」。御覧の拝殿。ここでようやくあたしは「こういうものなのだ」と腑に落ちた。なんだろうなー。寄合所だった、ということなのかしら。
御本殿は川を渡るのだ。拝殿と本殿の間に川か。資料や地図だと「棚機神社」となっとりますが、神社は鳥居・拝殿・本殿覆殿共に「七夕」の表記ですな。かつてはこの土地の小字が七夕だったとも。

南伊豆町に入ってまして、このあたりは「青市(あおいち)」という。さらに南西に下ると青野川・青野など「青」だらけとなる。青の土地とは律令制以前の海人族の移動と密接に関係するものだ。そんな青市にある「若宮神社」。
また南豆タイプの拝殿。勿論神楽殿としての性格もあり、お祭りの時はここが舞台となる。しかしこの若宮神社に関しては委細不明。現地でも「何の若宮」なのか分からなかった。土地の人は「若宮さんは…若宮さん祀ってるなぁ」という具合である。
ばななんばななん…今日は雨曇りで良く分からないが、南豆の地といやもう南国の雰囲気の濃い所だ。ちなみに南伊豆町の神社資料は現状まったく入手していないが、南伊豆町図書館に豊富に存在することは分かっている。期待大。
青市を北上中。これ道違ったら笑えるよね、と思いつつ。本当にすぐに海と山が入れ替わる伊豆である。
行く道の脇の森はこんなだ。江戸とかの昔にここを暮れてから歩いたりしたら、そりゃあ妖怪の10や20は湧いて出てもおかしくなかろうという感じだ。

すっかり山間部になった所の青市・三島神社。ここも式内:竹麻三社の論社として名があがる(有力論社ではない)。かなりの石段だが迂回路はない。登るべし。
その石段に椀状穿痕が。南豆ではあまり見かけなかったが、無い訳ではないらしい。
この三島神社の拝殿は明るくて中の様子がよく撮れた。こんなである。基本的に舞台殿だわよね。奥の中央がこうして開いていて、先にある本殿が見える仕様にどこもなっている。
こちらが御本殿覆殿。うーむ。やはり竹麻三社の一座としては内陸に入りすぎてるきらいがある。んが、ここへ来る途中に「石門寺跡地」の案内板があったが、その石門寺というのが平末から重要だったようだ。その辺がどう絡むか。
三島神社の本殿脇の石祠達。背後の樹々が山深さを物語りますな。
境内の古木。注連縄とかまったくなかったが、これが御神木でないなら何だという偉容である。
来た道戻って行きまして、川沿いに石塔が。水神さんかしら。この辺りの水はデフォルトで白く濁っているように見える。先の七夕神社前の小川もそうだった。

さて、山抜けまして再び海の方へと。小一時間ほど歩きますと手石(ていし)湾弓ケ浜という湾口に行きまして、その湊という所の「若宮神社」。竹麻三社のうち御子神の物忌奈乃命を祀る。ここは大体鉄板だろう。
あ、式内竹麻三社といっても延喜式には竹麻神社三座とあり、当時は一ヵ所だったと思われる(次の月間神社)。内、后神の阿波命と御子神の物忌奈乃命が遷座したのはその後(いつかははっきりしない)。
そんな次第なので、この湊の土地にも若宮が遷してくる以前の神さまというのが居た。それがなんと「小童神」らしいのだ。『式内社調査報告』ではかつては相殿であったとある。今はこうして本殿脇に。
東伊豆をずっと回ってきたが、わたつみのかみを「小童神」と書く例はここが初だと思う。三嶋信仰が確立する前にそうだったのか、それとも後になって「わたつみ」といや「小童」だろ、と誰かがこの表記を当てたのかは定かではないが。
若宮神社の境内からしてもう「砂」なのだけれど、海がすぐである。弓ケ浜。ここの海岸に出てあたしはこの土地が神津島にいます后神の阿波命とその御子神を祀ることになった次第が良く分かった。要するにここからは「神津島だけが見える」のだ。
まったくなんで今までそんな簡単なことに気がつかなかったのかという話だが、気がつかなくて良かったとも思う。実際その土地でその景色を見て気がつく。これは良い経験だ。しかしスゴイな神津島。もう地肌の凹凸も見えるのだ。
あ、余談だけれど今気がついた。人間の目ってすげえな。上との二枚は同じ所から取ってるのだけれど、あたしの目には神津島の地肌が見えていた。天然ズーム機能があるのだね。目には。
青野川を少し遡って戻りまして、対岸の手石の地へ。手石の地名の由来として出る「鬼女の手形石」と鬼女手石御前の祠。祠の後ろに大岩があるのだろうか。それが手形石なのか?ちょっともう雨が強まってきてまして、分け入る気にはならず。
役行者小角がこの地で荒ぶる鬼女を封じたのだと言うが、三嶋ファミリー最恐の阿波命の地の伝説と思うと何か関係するのかとも思わなくもない。阿波命は本地神津島では今でも祟ると恐れられる女神だ。祟る女神を封じた地、というコードが繋がっている。

ようやくこの日のメインテーマである竹麻三社の本社であるとされる「月間神社」へ。字面で分かるように式内:竹麻神社も「つきまじんじゃ」の読みだろうとされる。写真中央は由緒書きだったのかしら。今はまったく読めず。
もー、結構な雨具合でしてあたしびちゃびちゃ。
この日は狛犬さんがほとんど居ませんでしたが(田牛八幡に現代狛が居たくらい)、最後にすばらしい親子狛が。日本のこういった露天の像は「苔むして完成」、という感覚があるのだろうね。その感覚は日本以外にあるのだろうか。
扁額に見るように、もとは竹麻神社の名である。この土地を往古月間郷といい、神社も月間神社に。神階帳に「月まの明神」とあるので、結構古くに「月間」になっては居たのだ。
これまでに見たように后神と御子神は遷座してしまったので、今は残る三嶋大神がここの祭神となっている(事代主命)。しかし見事に御本殿にスポットがあたる社叢だ。発想が伊東の八幡宮来宮神社に似ている、気がする。
とまあそんな感じで雨土砂降りとなりまして撤収モードの予感。ま、目的の竹麻三社は回れたので良いか。時間的にはもう一社くらい行けるのだが、傘さしてても下半身ずぶ濡れになる勢いの降りだ。ここまでにしとけ、というお達しだろう。
いやしかし。竹麻三社のうち阿波命の遷座先とされる吉佐美八幡が納得いかねぇ。ぶっちゃけ遠いのだ。歩いてみたが同じ土地の範囲とは思えない。田牛の遠国島から龍宮窟、ないし手石の弥陀岩屋から来宮の小稲の湾口。その辺りではないか。
阿波命を祀ったとなればそれは下田白浜の伊古奈比咩命と対をなす様な祭祀地であったはずなのだ。大体『調査報告』でも吉佐美八幡を阿波宮に擬当する根拠はなきに等しい。これはとくと考えねばならぬ。

南豆行 2010.11.23

惰竜抄:

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