新羅始祖 赫居世王(前半)

金思燁:訳『完訳 三国遺事』原文

辰韓(斯廬)の地にむかし六つの村があった。その一つは、閼川(アリナリ)の楊山村である。南がわにある今の曇厳寺の方面である。村長を謁平といい、はじめ(天から)瓢岩峰に降りてきて、及梁部の李氏の祖先になった〔弩禮(ヌリ)王九年(三二年)に部を置いて及梁部といったが、本朝(高麗)の太祖の天福(後晋の高祖の年号)五年庚子(九四〇年)に、中興部と改称した。波潜・東山・彼上・東村などがこれに所属する〕。
その二は、突山の高墟村である。村長を蘇伐都利(ソボルトリ)といい、はじめ兄山に降りてきて、沙梁(セト)部〔梁は道と読み、あるいは涿とも書くがやはり道と発音する〕の鄭氏の祖先となった。今は南山部といい、仇良伐(クランボル)・麻等烏(マトンオ)・道北・廻徳などの南の村がこれに所属する〔「今」といったのは太祖(高麗)のとき置いたことをいうのであり、以下も同じである〕。
その三は、茂山の大樹村である。村長は倶〔仇とも書く〕礼馬である。はじめ伊山〔皆比山ともいう〕に降りてきて、漸梁〔「梁」を「涿」とも書く〕部、または牟梁部の孫氏の祖先となった。今は長福部といい、朴谷村などの西村がこれに所属する。
その四は觜山珍支村〔賓之、賓子、氷之とも書く〕である。村長は智伯虎である。はじめ花山に降りてきて、本彼部の崔氏の祖先となった。今は通仙部といい、柴巴(シバ)などの東南の村がこれに所属する。崔致遠は本彼部の人である。いま皇竜寺の南がわと、味呑寺の南がわに、むかしの屋敷の跡があり、これが崔侯の古い宅地であったことは明らかである。
その五は、金山の加里村〔今の金剛山(慶州の北にある)にある栢栗寺の北山〕である。村長は祇沱〔只他とも書く〕である。はじめ明活山に降りてきて、漢岐部、または韓岐部の裵氏の祖先となった。今は加徳部といって、上下の西知、乃児などの東の村がこれに所属する。
その六は、明活山の高耶村である。村長は虎珍である。はじめ金剛山に降りてきて、習比部の薛氏の祖先となった。今の臨川部で、勿伊(ムルイ)村・仍仇弥(インクミ)村・闕谷(カルコル)〔葛谷とも書く〕などの東北の村がこれに所属する。
以上の文をみると、これら六部の祖先たちはみな天から降りてきたようである。弩禮(いしゆみ豊か)王九年(三二年)(『三国史記』には、儒理尼師今とある)、はじめて六部の名を改め、また六つの姓を賜わった。いま世間では、中興部を母、長福部を父、臨川部を子、加徳部を娘であるといっているが、そのわけはよくわからない。

前漢の地節(漢の宣帝の年号)元年壬子(BC六九年)〔古本には建虎(武)元年、または建元三年であるとしているが、みな間違いである〕、三月初一日に、六部の祖先たちが自分らの子弟をつれて、閼川の岸のほとりに集まって相談し、「われわれのうえに、民を治める君主というものがない。(それで)民がみな勝手気ままに振舞っている。なんとか徳のある人をさがしだして、君主に立て、国をおこし都を定めようではないか」といいあった。そこで、高い所に登り、南の方を眺めてみると、楊山のふもとの蘿井(ネオル)のそばに、不思議な気配がしているのがみえた。あたかも雷光のような光が地面にさしたかと思うと、そこに一頭の白馬が跪いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこへ(みんなが)いってみると、一個の紫色の卵〔あるいは青い大きな卵であったともいう〕があり、(白馬は)人びとをみると、長くいなないてから天にのぼっていってしまった。その卵を割ってみると、(中から)男の子が出てきた。顔だちや姿が端正で美しい。驚きながらも不思議に思って、その男の子を東泉〔東泉寺は詞脳(サノ)野の北にある〕に(つれていって)沐浴させてやると、体から光彩を放ち、鳥や獣もいっしょに舞い、天地が揺れ動き、日と月とが(ことさらに)清明であったので、よってその子を赫居世(バルクヌイ)と名づけた〔これはおそらく朝鮮語であろう。弗矩内(ブルクヌイ)王とも書くのであるが、明るく世間を治めるという意味である。解説者がいうには、これは西述聖母が誕生したことをいったもので、中国人が仙桃聖母を誉め称えて、「娠賢肇邦(賢人を生んで国を治める)という語があるのもこのためである、とのことである。してみると鶏竜がめでたい兆を現わし、閼英を生んだという話も、西述聖母の現身をいったのではなかろうか〕。位号を居瑟(カツハン)邯〔あるいは居西干とも書くがこれは彼がはじめて口を開いたときに、自分で閼智居西干(アルチカツハン)がひとたびおこる、といったために、その言葉によってこのようにつけたのである。以後は(これらの語が)王の尊称として使われたものである〕といった。

金思燁:訳『完訳 三国遺事』(明石書店)より