千鳥ヶ池

西日本新聞社『福岡県の昔ばなし』原文

昔、池の近くに、年若い夫婦が住んでいました。
夫は気だてがよいうえ、村でも評判の働き者でした。妻もまた《生き弁天》と噂される美人で、何でも宗像郡の神興村(じんごうむら)から嫁いできたということでしたが、本当のところは、ある日ふいにこの家を訪れ、そのまま夫婦になったらしいのです。しかし村人とはあまり付き合いのない家だったので、詳しいことは誰にも分かりませんでした。ただ、とても夫婦仲がよいことや、野良仕事をさせるには不釣り合いなほど、姿がしなやかで美しい妻を、村人たちはうらやましく思っていました。

この夫婦には、村人の誰も知らない秘密がありました。
二人の間に、不思議な約束ごとが交わされていたのです。
夫婦になって間もないころ、妻が夫に言いました。
「せめてあなた様が仕事から帰られたときだけでも、きちんとした身だしなみでお迎えしたいと思います。ですから、戻られたら、玄関先で『エヘヘン!』と咳ばらいをしていただけませんか」
妻の申し出に、夫は愛しい妻の頼みだからと、毎日そうしていました。
しかし、日がたつにつれて、夫は少し変に思うようになりました。
〈──女房は、いつも美しくしている。それなのに、私が帰宅するときだけ、なぜ時間が必要なのだろう?…〉
それでも、夫は咳ばらいをするくらい何でもない、妻が満足するならいいではないか、と、何も聞かずに約束を守っていました。

ある日のことです。
考えごとに夢中になっていた夫は、咳ばらいをするのを忘れ、玄関の戸を開けてしまいました。そして、一歩足を踏み入れようとして、しまった! と思い、あわてて、
「エヘン!」
と、咳ばらいをしました。すると、部屋の中にいた妻はびっくりして、着物の袖で顔をかくし、しばらく肩で大きく息をしていました。 やがて、妻は、そろりそろりと、顔を上げました。夫は、肝をつぶしました。
ぬるっとした真っ青な肌! 血走った目! この世のものとは思えない見苦しい面差しでした。ーーが、夫がハッと息をつめたとき、妻は、元どおりの美しい顔に戻っていました。
「あ、お帰りなさい…。でも、あなた様、お帰りになったら、お願いしたように、必ず咳ばらいをしてくださいな」
妻が、やさしく言いました。
「ああ、悪かった。ついうっかりしてしもうて…」
夫はあやまりましたが、さっき垣間見た妻の顔の凄まじさを忘れることはできませんでした。
〈…何かある! 妻は夫である自分にも打ち明けられずに悩んでいる。一体、妻にどんな悩みがあるというのだろう?…〉
夫の不安は、日に日に増していきました。

数日後、夫はとうとう思いあまって、仕事を途中で切りあげ、家に帰ってみました。
足音をしのばせて家の周囲をうかがい、窓の障子に耳をつけました。
中は、シーンとしています。
〈──はて、妻は留守かな?〉
と、障子に手をかけたそのとき、
…ぞろーり、ぞろーり、ぞろーり…
畳の上を這うような奇妙な音がするではありませんか!夫は急いで玄関先へと走り、勇気をふるって戸を開けると、部屋にかけあがりました。
次の間の襖のかげに、いつも見慣れている妻の着物がのぞいていました。その着物の裾からノーッと出ているのは、大きな蛇の尾! とっさに、夫は妻が大蛇にのまれたのではないかと、蒼白になりました。
「お、おい、どうした!」
夫は、大声で叫びました。すると、大蛇の動きが止まり、静かになりました。しばらくして、また、ゆらーり…ゆらーり…着物が動いたかと思うと、大蛇が鎌首をあげて近づいてきました。
大蛇は、赤い舌をチロチロ出し、ペロペロとうろこを舐めはじめました。いつも妻がやっている身づくろいの仕草そっくりに! 夫は悲鳴をあげ、その場に尻もちをつきました。
「…ごらんになりましたね。このわたしの正体を!
わたしは、以前、あなた様に助けられた蛇なのです。恩返しにあなた様の妻となって今日までつとめてまいりましたが、この醜い姿だけはお見せしたくありませんでした。ですから、咳ばらいを、とお願いしていたのです。でも、もうあなた様のお側にいることはできません。これでお別れいたします」
すすり泣くように、恨むように言うと、妻は、いえ大蛇は、全身をスーッと伸ばしました。そして、勢いをつけ、ものすごい音とともに天井に向かって跳ねあがりました。天井が破れ、大蛇はさらに空中を飛ぶと、近くの池に身を投じました。

以来、この池のことを、妻の名前をとって『千鳥ヶ池』と呼ぶようになりました。
大蛇は池の主となって、今も底深く、ひっそり沈んでいるということです。

西日本新聞社『福岡県の昔ばなし』より