女体山の話

『改訂 長尾町史 下巻』原文

昔、志度の玉取りに来た房前大臣のお伴をした女官があった。この女官は大臣が都へ帰った後も志度にとどまって、漁師について海女の業を習っていた。あるとき一人の漁夫に犯され、身のけがれを恥じ、その上病気になったので、津田の雨滝山にこもったが、ここも浜が近いのでそのにおいを嫌って、造田の青木に移り住んだ。やがて、造田の土民と結婚したが、この女の人の肌が普通の人と違っていたので、だれ言うとなく「女体さん」と呼ばれるようになったとう。その後久しくして男の子が生まれた。この子は成長ののち農業に励んでよく働いたが、田畑の水の不足に悩まされることがたびたびであった。母はこれをあわれんで、「われ百歳ののち、水神となって農家に水利の便を与えん」と願をかけた。この母の死後、遺体を青木の山に葬って祠を建てた。生前の念願のためか、干天のとき土民が集ってこの「青木女体」に雨を念ずると必ず降ったという。しかし、この青木の山では不敬のことも多いというので、後に長尾の八幡池の東の山頂に遷宮したが、この女体神社に念ずる人が多く、再び東讃きっての高峰矢筈山の東に移してまつるようになったという。

女体神社の雨乞い祭には、前山中津の桐井某の家にある御神の金の御幣を持って、近郷の男子が集って登り、祠のまわりで火を焚いて、雨を願う日を書いた紙を祠に何枚もはりつけ、祠の中の石をかかえて手渡しながら裸踊りをすると、その念願の日に雨が授けられたという。今もこの祠の附近に棲息するイワバミ(多和やもり)はこの女体さんのお使いだといっている。

『改訂 長尾町史 下巻』より