大原千町の大蛇の恩

立花書院『大山の民話』原文

正面大山の裾野、見渡す限り広いたんぼが続き、人々はこの場所を大原千町と呼んでいる。 昔、このあたりは大山の大樹海で、一歩足を踏み入れたが最後、樹木がからまり道もとだえて身動きが取れず、命を落す人もあったという。

その頃、八郷(やごう)というところに、この広い土地の主である大蛇が棲んでいた。集落の人と大蛇は別に争うこともなく、お互いに助け合って平和な暮らしを送っていた。

正面に見える大山の日本海側に大山と山くらべをしたという唐山(孝霊山、高麗山、大山町)があって、長さが山を七まわり半もしたという大ムカデが棲んでいた。この大ムカデは地元でも評判が悪く、大山の麓の村々を暴れまわり、開墾したばかりの田畑を荒らし、そのまわりの家々を襲ったりしていた。誰もが困り果て、神や仏に祈願したり大蛇にどうしたらよいか相談に通ったが、さすがの大蛇も手も足も出せなかった。

ある日のこと、八郷の里に大躰神(だいたいしん)という神さまが訪れて、この広い樹海を開墾したいが、どうしたらよいかを相談に訪れた。ところが大蛇や集落の人が唐山の大ムカデに苦しめられている様子を聞き、「もし、私がその大ムカデを退治したら、この大地の開墾を手伝ってもらえるだろうか」と持ちかけた。もちろん反対する者は居なかった。

そこで、大躰神は立派な弓と矢を準備して、広い大山の裾野を通り唐山に向かった。その時、唐山の深い谷で大ムカデはいびきをかいて眠っていた。大躰神は時は今とばかりに強弓に矢をつがえ、力いっぱい弓を張った。矢は凄まじい勢いで飛んで行き、大ムカデの額に突き刺さった。

唐山が吹っ飛んでしまいそうな叫び声をあげて、大ムカデは谷底の淵へ落ちていった。

大蛇や集落の人々は大ムカデを退治してもらったことに感謝して、この大きな樹海をすべて差し上げたいと申し出たが、大躰神は自分が住めるだけの土地で十分だと言って、これを断った。

大躰神は森を切りひらき、開墾を始めた。そんなある日、大躰神が朝起きて見ると、あたり一面みごとに開墾されていて、水をいっぱい張った美しい水田になっていた。それに大山からこの水田に通ずる井手が、大蛇の力によってみごとに完成されていた。

大ムカデを退治してもらえたことが、よほど嬉しかったのだろう。大躰神は驚き、大蛇の暮らす小高い丘の上に登ってみると、すでに大蛇は疲れ果てて息絶えていた。

番原入口の植松神社(番原神社)には、祭神にこの大躰神をまつっている。大躰神は今もこの大原千町を守っていると伝えられる。近くの大原は刀匠大原安綱の鍛造地と伝え、また須村には植田正治写真美術館がある。

立花書院『大山の民話』より