大原千町の大蛇の恩

鳥取県西伯郡伯耆町岸本

昔、大原千町は大山麓の大樹海だった。その頃、八郷(やごう)に人の集落があり、大蛇のヌシもいたが、争うことなく協力して暮していた。しかし、大山の海側の唐山に山を七巻半する大ムカデがおり、暴れ回って開墾した田畑を荒らした。大ムカデには大蛇もかなわず、人々は困っていた。

そんな時、大躰神(だいたいしん)という神さまが訪れて、大山の樹海を開墾したいと相談してきた。そして、人々が大ムカデに困っているのを見て、自分が大ムカデを倒すから、そうしたら開墾を手伝ってくれ、といった。無論反対する者はなく、大躰神は唐山に向かった。

大躰神が唐山の谷に行くと、大ムカデが寝ていた。そこで今とばかりに強弓で矢を放ち、大ムカデの額を射抜いた。大ムカデは叫びながら谷底へ落ちた。皆は大喜びで大躰神に樹海を丸ごとさし出したが、大躰神は自分の住める広さがあればよい、といって開墾を始めた。

ある日大躰神が起きて見ると、土地はすっかり開墾され、大山から見事に水が引かれていた。大蛇が大ムカデを倒してもらった恩返しに、一夜で土地を整えたのだ。大躰神が大蛇の所へ行くと、大蛇は疲れ果てて息絶えていた。

番原入口の植松神社(番原神社)は、この大躰神を祀っている。大躰神は今もこの大原千町を守っていると伝えられる。

立花書院『大山の民話』より要約


極めて重要な伝説。大蛇と大ムカデの戦いは、『今昔物語集』の舳倉島の伝説を皮切りに、琵琶湖の瀬田の唐橋、日光男体山と赤城の神の戦いと分布しているが、この伯耆の伝説も全く同系といえるだろう。

大蛇と大ムカデ(古典)
『今昔物語集』巻第二十六第九:加賀国の蛇と蜈蚣と諍う島に行く人蛇を助けて島に住むこと

しかし、舳倉島(七人の漁師)・琵琶湖(俵藤太)・男体山(小野猿丸)と、合力してムカデを倒すのが基本的に人だったのに対し、伯耆では神がその任についている。「大躰神(だいたいしん)」とはこの話にしか見なく、不詳。植松神社は八幡さんだが、確かにこの大躰神も合わせ祀っている。

字面と音で考えるならば、ダイダラボッチのようにも思える。もしそうであれば、大蛇と大ムカデと巨人の三つ巴というとんでもない伝説ということになるだろう(俵藤太やその子孫は時々巨人として描かれもする)。

また、大ムカデがいたのが唐山という山であり、この山は別名・孝霊山・高麗山でもあるという。これもムカデが示すのは渡来系の鉱山技師集団じゃないのかという考察と呼応していて興味深い。しかし、この大蛇の方は祀られなかったのかね。