岩見重太郎の伝説

『小杉町史 後編』原文

一般的な伝承として、諸国を修業していた岩見重太郎は、たまたま越後から越中に入つて(一説どこからともなく来たともいう)四月はじめ(六月ともいう)射水郡黒河の地を訪れた。丁度、のぼりがたてられ祭だというのに村の中が静まりかえつていた。どうしたのかと一村人に尋ねると、その人の語るのには昔から人身御供と言つて、毎年祭りになると一人の女(未婚)を宮の神様に献じた。若し女を出さないとその年の稲の稔は大変悪い、それのみか一夜の中に田畠は荒れてしもう。今年は村の旦那さん(黒田)の娘さんが人身供養にあげられる順番になつている。それで村も静かなのですと語つた。重太郎はそれを聞いて、その人身供養に出る家を尋ね神様が人間を食う話があるか、私を身代りにして呉れと頼んだ。それを聞いた娘は勿論、家の人々は夢かとばかりに喜んだ。やがて夜も更け、人身供養の箱に入つた重太郎は村人に別れをつげ、村の若衆がその箱を担いで、山のお宮(竹山ともいう)へ運び宮の椽側に置かれた。重太郎はまだか、まだかと待つていた。深夜になつて、ゴーオという大きい風が吹いて来た。重太郎は刀のつかに手をかけて待ち構えた。やがてみしりみしりと足音がして箱の方へ近づいて、箱のふたが取られるや否や、重太郎はえいーとばかりに切りつけた。しかい相手もなかなか強くて戦が始まつた。(三日間戦つたとも伝う)しかし最後に重太郎がとどめをさし殺した。それは恐ろしい化物であつて、頭は猿で、体は獅子の如く、尾は大蛇のようだつた(一説にヒヒ、ショウジョウともいう)。

ところが此の時、重太郎は身体に大変な毒をかけられ全く死んだように倒れていた。やがて夜が明け村の若衆が竹山へやつてきてみるとどうであろう。重太郎は死人のように倒れ、その傍に化物が死んでいた。これを見て驚いた若衆は早速重太郎をかついで、黒田の旦那さんまで運び一生懸命介抱したので、その甲斐があり少しは体もよく回復したので、村人に別れをつげ、能登の方へ修業に出かけた。人々の喜びは一入であつた。これを記念して今も人身供養の箱を送つた習わしをとどめて、村の祭にヨータカ(夜高のこと)の習わしがあるのだという。

話はこれだけでは終らない。それによると、ずつと大昔(年代不明)のこと小杉と黒河との間は大きな大きな湖であつて、遙か婦負郡の方からも船が通つていた。そして湖の真中に弁天島があり、そこに宮(神社)があつた(今の歌の森だともいう)。そこに大きな大きな大蛇が一匹いて、毎年々々祭が近づくと、宮の近くを通る人間を必ず一人呑んだ。しかし呑むといつても男女の別がなかつた。

ところが或年、通り合わせた岩見重太郎がこの大蛇と三日三晩格闘をして、遂にこの大蛇を殺してしまつた。重太郎はその後どうなつたか全く伝えられていない。ところが、呉羽、束老田、大島ではまたちがつた伝承があつたがここではふれないことにする。

『小杉町史 後編』より