沼がらの伝説

『西川町史 下巻 近代・現代・民俗』原文

水沢の西端で、石倉と境の沼がら地区は、昔から地盤の不安定な地すべり地帯で、過ぐる年、国道一一二号を改良するに当っては、地質地盤の適否を含め、大がかりな対策工事を実施し、その効果を得て現在の路線が確保されるようになったのである。

地名の「沼がら」は、沼河原の字を充てることもあるが、その由来は、昔はその一帯は大きな沼であり、それが寒河江川に向って決壊し、「から」になった沼の跡だけが残ったので「沼がら」の呼び名となったのであろうと地元の人々は理解しているようである。

さて、この「沼がら」がまだ沼だった頃と、決壊した時のことについて次のような伝説が残されている。

昔、鎌倉武士の五郎左衛門正則という者が、幕府の機嫌を損じその追討をのがれて水沢に辿り着き、その沼のほとりに棲み、家を構えて暮すことになったのである。

この五郎左衛門には、たか子という一人娘がいたが、それはそれは、美しく気立てのやさしい娘であったという。

或る暑い夏のこと、これも鎌倉から羽黒山へ山伏修行に行くという、気品ある一人の虚無僧が、五郎左衛門宅に托鉢に立寄り、非常な暑さでのどがかわいたので、一杯の水を所望したのである。五郎左衛門は快く古びた茶椀に水を汲み、十分なだけ馳走してやったのである。

虚無僧は深く御礼をいい、羽黒山へ向けて立ち去っていったが、五郎左衛門の娘は、立ち去った虚無僧の気品ある姿に心うたれ、そこに少しばかり残っていた呑みかけの冷水を飲んでしまったのである。

ところが、不思議にも娘は懐妊し、月満ちて玉のような男の子を出産したのである。一方虚無僧も修業を終え、本国に帰る途中、娘の美しさを忘れ難く、再び五郎左衛門の許へ立寄るのだが、娘が男子を出生した一部始終を語り明かされたのであった。

それを聞いた虚無僧は、男の子をつくづく見ていたが、何を思ったのか、例の冷水を一杯所望し、口に含むと、子どもの顔へ霧のように吹きかけたのである。すると、これまた不思議なことに、子どもは忽ち只の水となって消えてしまったのである。

娘は狂わんばかりに驚き、悲歎の余り、家の前の沼に身を投げてしまった。娘はみるみるうちに、沼の主の蛇体に変わり、天地鳴動し大荒れになったのであるが、虚無僧は、その娘のうらみを解き、うかばれるように法名を、龍沼寺水子禅女として妙法を唱えて収めたといわれている。

虚無僧はこの地に止まり、剃髪出家して龍沼坊と称し、たか子の霊をなぐさめたという。龍沼寺にまつわる伝説である。

更にこの沼が、ある年の大雨で決壊した時、この沼の主は、入間の砥の粉沢を越えて逃れ、沼山大沼の女の主になったとも伝えられている。

『西川町史 下巻 近代・現代・民俗』