大草村上條東割地内坂下六田という所にある。大きさは約六尺立方位である。昔早乙女衆が田植の中休みに、此処の芝原に腰を下して休んだ。初の内は苗や田植の話をしていたが、話はだんだんはずんで、四方山の世間話になった。しばらく話した時一人の早乙女が思い出した様に「さあさあ休み過ぎたよ、もうあんなになった」と山に落ちかかった夕日を仰いだ。すると話の音頭取りをしていた早乙女が「へえ山へへえりやがるだか」と不足がましく言った。その途端山上から小家の様な大石が凄じい音をたてて転げ落ちて来て、あわやという間もなく件の早乙女を敷き伏せてしまった。(矢崎やす)
今大草にこの意思があるのかどうかは不明。韮崎市には釜無川の左岸、韮崎町(河原部)にも早乙女姉妹を圧死させた大石があったという(今はない)。そちらは地震で、という理由があるが、大筋はその姉妹の供養の石と祠だった、という話である。
比べてこちら大草の早乙女石の話は、それが沈む太陽に文句をつけた早乙女がいたからだ、となっているところが目を引く。非常に重要なポイントだ。おそらく、本来は日招き長者の話の筋だったのではないか。ここが、早乙女と機織り姫を結び付けていく交点となる。
突然の落石に敷き伏せられてしまう、というのは機織りの娘にも語られることなのだ(「はたご石」)。早乙女石と機織り石の話というのは、この筋でまったく同じように構成される。
そして一方、この二者は日招き長者の伝説にも双方顔を出すことになる面子でもある。早乙女がそうであるのは全国枚挙にいとまなく語られるが、機が織り上がらないので日を招く、という話も霞ケ浦のほうにある(「入陽を呼び戻した長者」)。
この二つの系で交錯することを思うと、沈む太陽に文句をいって石の下敷きになった早乙女の話、という存在が貴重であることがわかるだろう。