井の頭と善福寺を源とする神田川が流れている。井の頭で草刈りをしていたら、白蛇が出たので鎌で切ってしまったという。白蛇は井の頭の池に飛び込んで、それから神田川には三日三晩蛇の血が流れたのだそうな。それで、宝仙寺の坊さんを頼んで供養してもらった。
坊さんが麦わらで蛇を作って川に投げ込んで拝むと、血が止まったという。そして、その蛇(じゃ)の頭骨が見つかったのが淀橋、あそこなんだそうな。それから、あの橋をお嫁さんが通ると、みんな姿が無くなる、引っ込まれるというので、姿見ず橋と呼ばれるようになった。
一方、その下の小滝橋へ行くと、死んだお嫁さんの姿が浮かぶというので、そちらを「姿見橋」と呼ぶようになった。嫁入り行列は姿見ず橋を決して渡らなかった。うちの母親も嫁入りのとき通らなかった。
中野長者の姿不見橋の伝説(「成願寺勧進帳・冒頭」)だけれど、このように長者の全く出てこない話も多くある。無論、蛇の血で汚れた橋なので、長者が下男を殺すという惨劇も起こったのだ、という話になっているものもある。上の資料にもあるが、中野長者の話は「十人寄れば十人、みーんな話が違う」ので、どれが本当か地元の人にも決められない、というところがある。
そうではあるが、ここではまずやはり中野長者の話は井の頭池のほうとつながりがある、ということを確かめておきたい。これは引いた話の宝仙寺(中野)の伝説で、実際その蛇の頭骨は寺の宝として、雨乞いの際に持ち出され、そのたびにその伝説が語られたものだったという。
また、「姿見ず橋」はまた面影橋・暇乞い橋・涙橋などとも呼ばれていたというが、要は縁切り橋だ。で、いろいろの話の中にはやはり「そこへ影を映すと不幸があるっていうんで。なんかね、川にこうね、姿を映してはいけないって、なにか不幸があるっていうんで」というものがある(同資料)。
おそらく、影取り橋でもあったのだろう。影取りの蛇、というモチーフは中野長者の話とはまったく関係のない流れといえ、「鈴木の娘が蛇体となった」という話の核とは違うところから結びついたもの、という感が色濃くなる。