大昔のこと。不気味な音響が遠くから聞こえ、地響きが続いていた。狩りに行った男たちも、すなどりに行った女たちも子どもらも、皆もどって大樹の下にかたまり、おびえていた。大風が吹き、大地を叩くような雨が降り、人々は抱き合って恐怖をこらえていた。
長老は、「見ちゃなんねえ、見ちゃなんねえ、目を開くんじゃねぇ」と唱えごとのように呟き続けていた。やがてあたりが静かになり、空が明るくなって日が射し、獣も小鳥たちも鳴きだし、平穏が戻った。そして皆は噂するのだった。
確かに何かが通っていった、それは悪魔だ、いや福の神だ、たしかに足を見た、山が落ちてきたようだった……などなど。それは確かに東のほうへと去ったといわれ、長老が、それはでいだらぼっちというのだ、と言った。
富士山の麓にいたとも、筑波下の人たちも見たともいう。でいだらぼっちは富士山をまたぎ、関東平野を横切って筑波山のほうへ行ったのかもしれない。逆井や酒井根、高田の足跡も、その時のものかもしれない。
でいだらぼっちが移動していく時の様子が記述されているもの。原文はあまりに劇的に描かれているので、どこまでそう語られていたのかは分からないが、それでも示唆に富む情景だといえる。
殊に、長老が「見ちゃなんねえ、見ちゃなんねえ、目を開くんじゃねぇ」と唱え続けているところは印象に残る。でいだらぼっちは一方でそういった移動していく荒神であったのだろう。そのような神を忌む話、忌み籠もる風習は各地にあるが、そこにつながっていく、ということになる。
しかし、一方で同じ柏において、でいだらぼっちは村人がその子どもたちが大好きだった親しみのある存在としても語られている(「雨を降らせたでいだらぼっち」もとは同じ題だが分けた)。双方の印象を両立させるのは難しいが、同時に双方語られていたというなら、並び立たせる何かがあるのだろう。