むかし、赤城の南の赤堀というあたりでは、毎年、白羽の矢が屋根に立つと、そのうちの娘を小沼へおさめるというしきたりがあった。娘をあげないと、その土地は荒れるといわれていた。娘を小沼へあげるときには、赤飯を炊いて持って行くという。
ところが、あるとき、俵藤太が、ムカデを退治してから、そういうことがなくなったという(ムカデが娘をほしがったわけ)(邑楽郡大泉町吉田)。
「赤堀道元の娘」から追ってみるとわかるように、赤堀のほうにはそういった人身御供の話は全くない。それが透けて見える話の構成かというとそういう感じでもない。
ところが邑楽に至ると、こういった娘が入水するのが秀郷の登場より前、という逆転した話にもなるようだ。赤堀氏の存在自体が話から希薄になるとこうもなるのだろうか。特に深い何かがあるというわけではないだろうが、参考までにあげておく。