栃木市と鰻

栃木県栃木市

栃木市の大通りは今は蓋をされ舗装されたが、もと堀であり、大通りができた後も両側を流れて車道人道を分けていた。栃木ではお布令で鰻を捕ることを禁じたので、この流れには鰻がうようよいて、釜など洗うと飯粒をなめに入ってきた。

それで栃木人は鰻に親切であるから、鰻はますます殖えて人を怖れなくなり、それで近村から夜密漁に来る者があった。それが自衛の番太に捕らえられると、見せしめとして今の倭町の四つ辻高札場に三日間立たされ晒されたそうな。

三島県令の強制による道路改修で、堀を付け替えた時は、旧堀の石垣を崩すと、鰻がニョロニョロ這い出してきて、四斗樽で幾杯も幾杯も運び出され、巴波川に流された。それで巴波川は鰻が多い。

しかし、昔は鰻を恐れた栃木人も、今は鰻の通であり、そのように増えていた鰻が名産となった。岸の石垣の石の間へ細い短い釣竿をさし込んで鰻を釣る人が幾人も見られる。職業になる程鰻が釣れるのである。(部分要約)

小林猶吉『下野の昔噺 第一集』
(橡の實社)より要約

ともあれ、太平山膝下の栃木市は、このように鰻を禁忌としていたのだという。それは信仰上の風習とはいえ、布令があって、密漁者を高札場に見せしめに立たせたなどというと、どうもそれで収まる話にも見えない。条例に近くその禁忌はあったのだろう。

もっとも、静岡も鰻が名産となったというのを見れば、禁忌があって増えたがゆえに名物となったというような流れは同じくするかもしれないが。