栃木市と鰻

原文

今時そんな旧弊人はないであろうが、昔は、栃木町の人々は絶対に鰻を食わず、明治の中頃までその風習が残っていた。「栃木の人でも鰻をさしつかえありませんか」と聞かれてから馳走になる程、他の土地へも知れ渡っていたのである。

 

 物固き栃木人かな秋扇 晨悟

 

物堅い料理屋があって、そこでは鰌の蒲焼はしたが、鰻は絶対にせず、客が女中をからかって鰻を言いつけでもしようものなら、亭主が真赤になって客の座敷に行き、「鰻を食いたけりゃ他所へ行ってくれ」と断ったものだ。また、鰻の蒲焼をする料理屋でも、年に一度は必ず細鰻を百尾位笊に入れて寺で拝んで貰って巴波川に流し、放生の鰻供養をして、鰻を殺す罪滅しをしたものであった。一般の家では、鰌でさえ誤って溝へ流すと、盲の子が生まれるとて恐れて探したものだ。

太平山神社の額堂の数々の古びた額の中に、錆び細っている四五寸の鉄の鰻掻きの鉤が二本並べて板に結いつけられ、その隅に奉納人の村と名を書いたのが消えて読めない古い額が上げられてある。それは、鰻取りを渡世にしていた人が、病気か災難にあって、これは、鰻を捕った為めに太平山の罰が当ったのだと恐れて、もう再び鰻捕は致しませんとのお詫びのしるしにその道具を額にして納め、名前を書いて懺悔を明かにしたのであろう。

それは、鰻は太平山の乗り馬なのである。神仏混淆の旧幕時代には、太平山は、現在、本社の東にある朱塗りの星の宮が本宮で、僧の連祥院が別当し、神道としての祭神は天照大神・月読命・瓊々杵命で、三光神社といって日・月・星であり、仏教では星の宮と呼んで、虚空蔵菩薩が本尊であって、町内各戸次ぎ次ぎの日参や、個人の月詣りなどを欠かさず、栃木人は信仰が厚かった。

 

 冬の夜や市に土蔵を住みも古り 晨悟

 

明治の神仏分離によって、神の方は太平山神社として山上に祀り、仏の虚空蔵菩薩は一時山の隅の堂に荒れ果てていたが、今は山の表坂の中腹に立派な六角堂に祀られてある。

丑寅虚空蔵といって、丑年生れの人、寅年生れの人の守り本尊は虚空蔵菩薩としてあるのに、その丑、土用の丑の日に虚空蔵菩薩の乗り馬の鰻を食うのは、その頃の栃木人とは反対の御利益なのであろうか。尤もその日鰻は、一番油が乗った時であり、人は暑さで汗となって油が抜けきった時である。

栃木ばかりでなく他所でも、星の宮の祠のある村を通って聞いて見ると、今でも決して鰻を食わぬとか、前には食わなかったが、今は食うようになったとか答える。

鰻が虚空蔵菩薩の乗り馬といい馴らわされたことは、古書によると、鰻と鱧とを取りちがえたことで、鱧の頭には七つの白点があり、それは北斗七星を戴くものとして星の宮なる虚空蔵菩薩の乗り馬とされたのを、鱧でなく鰻にされてしまったのであるという。

栃木では、お布令で鰻を捕ることを禁じたので、其の頃はどの川にも鰻がうようよといたといい、現在の栃木市の大通りに、今は舗装されて蓋をされてあるが、両側を流れて車道人道を分っている堀は、昔は、大通りの中央を一本で流れていた清冽な水で、其頃両側に連る家々は半商半農で、道に麦を干したり、川の水で洗い物をしていた。その流へ釜を漬けて置いて後に洗いに行くと、その中へ忽ち鰻が入って焦げ付いた飯をなめている。洗いに来た人は「どうぞ出て下さい」といって、釜を傾けたという。

栃木の人は鰻に親切であるから、鰻はますます殖えて人を怖れない。それで、近村から夜に乗じて密漁者が来るので、盗賊や火災に備えて町を自衛する自身番の小屋で番太が見張って居り、捕えて鰻に向って詫びさせて鰻を川へ返し、その男を縄で縛り、町の中央の中町、今の倭町の四つ辻なる高札場に立たせ、「此の者鰻を捕えたるにより三日間さらすものなり」と一般への見せしめに生き面をさらしものにしたという。

太平山の表参道の一の鳥居の幽邃な境地に、朱塗の神橋があり、筧で山水を引いた御手洗がある。その少し上に御神木といわれて、注連縄を張った杉の大木の根本に、なかばを山の斜面に建てかけた三坪ばかりの小屋がある。三方は板囲で、前面だけが格子扉に注連縄がはられてある。中は石組で池になって居り、冬も山の水が石組の間からチョロチョロと流れ出ている。これは、鰻お小屋とて遠近の信神家が鰻を持って来て献納に放つところである。其処へ納めた鰻は、神の徳によって白くなるのだといい、山水の垢でよごれたのを信神心にはそう見えたのである。その鰻が小屋の池に充満して、そちこちに毬のようにお互にからみ合っていて蛇とも見え、気の弱い者は一と目見ただけで卒倒せんばかりであったといい、年取った鰻は、耳が生えていたという。

幕末の風雲急な時、元治元年、水戸藩を脱走して筑波山に旗揚げをし、勤王を唱えた武田耕雲斎、藤田小四郎の一味なる田丸稲右衛門、田中愿蔵等百七十余名がこの山に立て籠った所所謂太平天狗が、此の鰻を食ってしまったので、その乱暴さを町人に恐れしめ恨ましめた。それ以後鰻の奉納は減ったが、明治の中頃まで幾分はあり、今は絶えたが、鰻お小屋は今も昔のままに水を湛えて、山の茶屋の水汲み場になって、大きな柄杓が置いてある。

明治初年、栃木に県庁が置かれて、三島県令の強制的命令による道路改修で、大通り中央を流れていた堀を二本に分けて左右に流し、車道人道の区別をした堀付け替えの時、旧堀の岸石垣を崩すと、鰻がニョロニョロ出て来て、それを捕えては四斗樽に入れて幾杯幾杯も運び出して、巴波川へ流したという。それで、巴波川には、今も鰻が多いのであるという。

今も、巴波川の鰻は、市の下水の栄養で肥えて味が殊によく、地鰻と呼ばれて肉がしまり、養殖鰻をベロベロ者と憐んでいる。昔、鰻を恐れた栃木人は、今や蒲焼の通であり、鰻は栃木市の名物の一つである。同じ名物の一つに芋串があるが、これは春になって実のしまった栃木芋の子芋を茹でて串にさし、火の上で焼き、味を付けた味噌を付けて又焼いたもので青海苔や七味唐辛子などを振り掛けるのである。同じように串にさして焼き方も焼く火鉢の形も同じであるが、鰻の蒲焼は焦げるのを嫌って焔の立たない硬炭、備長などを択び、火を盛にする為めに渋団扇であおぎながらよい匂いをただよわし、その立つ灰を払うのに片手で団扇を叩く音が又よいのであるが、芋串は味噌が幾分焦げた方がうまいので、焔が立って焦げるように柔い炭、消炭で焼くので、鰻の蒲焼に対しのろまな鄙の雅味である。

 

 芋串や古の栃木の世も変り 晨悟

 

比較的古きを残す栃木市も、昔が亡びて行く中に、紅葉山人の小説「巴波川」の情緒を残してお蔦が居そうな巴波川の岸辺の水に、腰切れ襦袢で下り立って、抜き足さし足で水を渉りながら、岸の石垣の石の間へ細い短い釣竿をさし込んで鰻を釣る人が幾人も見られる。職業になる程鰻が釣れるのである。

 

 江戸船の昔に飛べる蛍かな 晨悟

 

NHK 昭和二十七年七月廿九日放送による

小林猶吉『下野の昔噺 第一集』
(橡の實社)より