夜刀の神

門部:日本の竜蛇:関東:2012.02.25

場所:茨城県行方市玉造
収録されている資料:
『風土記』(平凡社ライブラリー):「常陸国風土記」
タグ:角のある蛇/『常陸国風土記』の竜蛇


伝説の場所
ロード:Googleマップ

『常陸国風土記』は和銅風土記といわれ、和銅年間から養老年間には成立していたと思われる。『日本書紀』と同時に編纂が進み、成立したものと思われ、風土記の中でもプロトタイプ的な趣のある史料である。言い方を変えれば編纂方針が定まる以前の産物というわけでもあり、二十年程後の天平年間にまとまった『出雲国風土記』などと比べると首尾一貫した構成というものがない。しかし、その間隙に摩訶不思議な記述が多々混入するわけで、要するに面白いのである。

そのような『常陸国風土記』の行方(なめかた)郡の条に「夜刀神(やとのかみ)」という蛇神が記録されている。先にも述べたようにこの風土記の成立は今に伝わる史料の中でも最古級なので(もちろん当時のものが現存しているわけではないが)この蛇神も文字に書かれた最古級の蛇神と言える。

行方郡:
古老がいうことには、「石村玉穂宮に大八洲をお治めになられた天皇(継体天皇)のみ世に、〔えらい〕ひとがあった、箭括氏の麻多智という。〔麻多智は〕郡役所から西の谷の葦原を占有し、開墾してあらたに田を作った。この時、夜刀の神は群れをなし互いに仲間を引き連れてことごとくみんなやって来た。そしていろいろさまざまに妨害をし、田を作り耕させなかった。《土地の人はいう、「蛇をよんで夜刀の神としている。その姿は、からだは蛇で頭には角がある。杞(川ヤナギ)を身に帯びていると難を免れるが、運わるくこれを見る人があると一家一門は破滅し、後継ぎの子孫がなくなる」。だいたいこの郡役所の側の野原には非常にたくさん住んでいる。》ここにおいて麻多智は激怒のこころをおこし、甲鎧で身を固め、自身で仗(ほこ)を手にとり、打ち殺し追い払った。そこで、山の登り口に行き、〔土地占有の〕標の大きな杖を境界の堀に立てて、夜刀の神に宣告して、『ここから上は神の土地とすることをきき入れてやろう。だがここから下は断じて人の田とするのだぞ。今後は、私が神の祭祀者となって、代々永く敬い祭ろう。どうか祟ることのないよう、恨んではならぬ』といって、社を作ってはじめてお祭りした。すなわちまた耕田一十町あまりをひらき、麻多智の子孫が、互いに受け継いで祭をとり行い、いまに至るも絶えない。

吉野裕:訳『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

以上が前半である。「夜刀の神の社」がその後も中世近世と祀られてきたのかというとそんなことはなかったと思われるのだが、現在は地図上ポイントした「愛宕神社」がその後裔とされている(異論もある、後述)。

「ヤト」(ないしヤツ)とは関東の方の言葉で川の拓いた谷間の湿地を意味する。谷戸と書かれることが多く、この地名は非常に多い。夜刀の神ももともとはそのようなヤトに棲む蛇神の意だろうとされ、概ね異論はない。行方(現在は「なめがた」)は、同風土記で丘谷丘谷という地勢の連なるところをそう呼んだ、と書かれているくらいで、その「ヤト」的な谷の田が連なるところでもある。下の写真は愛宕神社から霞ヶ浦へのヤトの様子。

現地のヤト
現地のヤト
フリー:画像使用

「箭括麻多智(やはずのまたち)」なる人物のことはよく分からない。引用した『風土記』では吉野裕の註として「弓矢の武力を具象化した人名ともとれる。おそらくは物部祭祀集団の族人であろう」とあり、また吉野は別に「麻多智は〝真大刀〟を象徴化したもので……」とも述べている。白水社『日本の神々11』でもこの説が紹介され、物部氏の線で話が進んでいる。私は特に付け加える新たな発見などは持ち合わせないが、この地の南、行方郡役所のあったあたりの「麻生(竹のような大麻が生えたと同風土記に伝わる土地)」と「麻多」は関係しないのか、とは思う。「郡役所から西の谷の葦原を」とあるように、今想定される愛宕神社の下のヤトより麻生の方の郡役所に近いヤトの話だったのではないかと見る向きもあり、そうなるとより一層「麻生・麻多智」は関連して考えて良いのじゃないかとも思うのだが、先に風土記の続きの様子を見ておこう。

その後、難波の長柄豊前の大宮に天の下をお治めになられた天皇(孝徳天皇)のみ世になって、壬生連麿が、初めてその谷を占拠して、池の堤を築かせた。その時、夜刀の神が池のほとりの椎の木に昇り群がって、いつまで経っても退去しない。ここにおいて麿は、大声をあげて怒鳴って、『この池を修築させるのも、根本は人民の生活をよくするためなのだ。大君の教化にしたがおうとしないのは、いったいいかなる神(あまつかみ)か、どこの祇(土地神)なのか』といい、ただちに使役していた農民に命じて、『目に見える一切の物は、魚でも虫でも、恐れたり愚図愚図しないでみなことごとく打ち殺せ』といった。その言葉がまさに終わるや否や、神蛇は遠ざかり隠れてしまった」。ここにいうところのその池は、今は椎井の池と名づける。池の周囲に椎の木があり、清い泉が出ているので、その井(泉)の名(椎井)をとって池に名づけている。すなわちここは香島に向かう陸路による駅路である。

吉野裕:訳『風土記』(平凡社ライブラリー)より引用

椎井の泉
椎井の泉
フリー:画像使用

後半の話に出て来る「椎井の泉」が今も愛宕神社の下にある。

愛宕神社は享禄二年(1529)に常陸大掾氏(将門の同族)によって勧請され、夜刀神社に併せ祀っていたところ、土地で夜刀の神の意味合いが薄れ、愛宕神社が主となってしまった、という経緯が伝わっている。

愛宕神社
愛宕神社
フリー:画像使用

もとは現地より南、先のヤトの写真の本当に突き当たり付近の「古愛宕」という小字に祀られていた(今は何もない)が、水戸藩主義公の命で現地に遷した。今「夜刀の神」の痕跡はその愛宕神社の横にある石碑と、先の椎井の泉脇の由緒書きくらいである。

愛宕神社:夜刀の神の石碑
愛宕神社:夜刀の神の石碑
フリー:画像使用

ここで周辺地図を見ると、記述にある「郡役所から西の谷の葦原を」と「香島に向かう陸路による駅路である(曽尼駅の側ということだとされる)」との関係が微妙に離れたところになってしまう、という問題がある。

周辺地図
周辺地図
フリー:画像使用

基本的にはメジャーな各資料は玉造愛宕神社を遺称地としており他の論はあまり見ないが、地元旧麻生町側の地域史家などは麻生の想定地を推す声も強い。もっともどちらにしても確たる何が伝わったというわけではないので「決着」は考え難いが。しかし、ひとつ言っておくと、麻生側の憑拠として想定地に「蛇神を祀る巳待講が存在する」という点はどうかと思う。そのような言い方をすると目をひくが、巳待講とは要は弁天講であり、これは行方のヤト筋どこも良く祀る。第一弁天と蛇の伝承なら玉造側の方が濃い。

さて、舞台の紹介はそのくらいとして、以下私見を述べておこう。まず、先引用の後半部に見るような外来の統治者が地主の神をみな殺しにしろ、と言ったりするのはおかしいのではないか、と良く指摘される。『常陸国風土記』は編述者が中国的・儒教的な感覚、神仙譚的な表現によりすぎて編纂されているという問題があり、この場面も改変がなされているのではないか、と考えられるのだ。

確かにこの地を統括したと思われる氏族は多氏・物部氏・壬生氏などであり、いずれも劣らぬ蛇神信仰をもった氏族であることを考えればなおさらである。そして、そうであるとして、その部分をさっ引いてみると、この地には色濃い蛇神信仰があった、という単純な図式になる。ここで注目しておきたいのが先の周辺図にも載せた隣地区芹沢の「芹沢弁天(市杵島神社)」に伝わった話である。

芹沢弁天(市杵島神社)
芹沢弁天(市杵島神社)
フリー:画像使用

昔、芹沢に一之沢池という大きな池があった。この近くに山中左衛門尉清定という者が移り住んできて、豪勢な屋敷を建てた。その清定から何代かあとの永定の時、永定に一人の女の子が生まれた。しかし、その女の子の背中には三枚の鱗がついていた。
驚いた両親が名医を呼んだり祈禱を試みたが、その鱗は決してなくならなかった。両親は不憫に想い、このことは誰にも話さなかったが、噂は村中に広がってしまった。娘は美しく成長したが、鱗を恥ずかしがり、一歩も外に出ることがなかった。
十七歳になった時、娘は思い悩んだ末に、屋敷を抜け出すと一之沢池に身を投げてしまった。すると、娘の体は、全身に九万九千枚の鱗をつけた大蛇に変わり、池の主になったという。村人たちは娘をあわれに思い、祠を建てると弁天として祀った。

藤田稔『茨城県の民話と伝説』より要約

「日本の竜蛇譚」でも所謂「女人蛇体」の伝説を数多く紹介してきたが、これもその一系となる伝説だ。「大浪の池」「沈堕の滝の主」など参照。

そして、この系の伝説が「娘の入水という悲劇」という型として敷衍する前、蛇神を祖とする一族・蛇神信仰の色濃い氏族土地にあって語られていた際は、子孫に蛇祖に近い神童が出た、という話だったのではないかということも再三指摘してきた。つまり、常陸の夜刀の神の話も、夜刀の神を討伐した話という色合いが後退するならば、蛇神を祖と持つ蛇神信仰の強い土地であったという話になると思われ、この芹沢弁天の伝説もその古層から連なっている可能性を考えておいて良いと思うのだ。

もう一点。『常陸国風土記』の大蛇には、もう一例「角折の浜(香島郡)」の記述に「角の生えた蛇」が出てくる。詳しくは別に述べるが、海に出ようとした大蛇が角で穴を掘ったのだけれど角が折れてしまって落ちたので角折れの浜という、とある。最初に述べたようにこの風土記は最古級の史料であり、そこに「角のある蛇」が複数出て来るのが興味深いのだ。一般に大蛇が怪として角を生やすのは中国などからのイメージの流入だろうと考えられているのだが、そうとばかり言えない面がこの常陸に見えるのである。

蛇頭把手(破片)
蛇頭把手(破片)
フリー:画像使用

図は常陸大宮市(旧・東茨城郡御前山村)西塙遺跡から出土した縄文後期初頭の土器の「蛇頭把手(破片)」である。頭部にひとつコブ状の角が見えるとされる。このような蛇頭把手の破片が日立市上の代遺跡・東海村御所内貝塚からも出土している。『茨城の民俗18(蛇・竜の民俗特集)』において佐藤次男 は「「角ある蛇」と「頭上の蛇」」と題しこの蛇頭把手をあげ、

かくのごとく、蛇頭の角状突起例が三個となるにおよんでは、これは明らかに故意に付されたものと断ぜざるを得ない。すなわち、「角のある蛇」は、すでに古く縄文人の意識の中に存在していたと言えるのである。

『茨城の民俗18(蛇・竜の民俗特集)』より引用

と見解している。また、白水社『日本の神々11』の夜刀神社の稿でもこの蛇頭把手に関し、

茨城県内でも蛇形装飾をもつ土器がいくつか知られており、なかでも日立市上の代、東海村、御前山村などで発見された縄文中期以降と推定される土器には、頭部に突起をもつ異形な姿の蛇装飾がほどこされている。これがのちの竜神に連なるか否かは別として、すでに縄文人が角のある蛇を意識していたことは確かであろう。

白水社『日本の神々11』より引用

と見解している。指摘の通り、これが夜刀の神ないしその後の竜蛇の怪にまで連なるかどうかというのはまた別の話だが、常陸の地に西からの人々の移動以前に蛇神を強力に信仰する人々がいた可能性がある、という点は重要だろう。

『常陸国風土記』はまた、西からの人々が土着の民の国栖・佐伯であったり土蜘蛛であったりを平らげていく記録でもあるが、周辺夜刀の神のように自然を神格化した怪として書かれているものの多くも、実はそれを信奉していた人々のことを言っているのではないかと見える節がある。以上の点から見て、私が夜刀の神の件で指摘しておきたいのもまさにそこだ。箭括麻多智や壬生連麿が自然を切り開いたという記述ではあるが、その本質は蛇神を祀っていた「夜刀一族」的な土着の民との摩擦のことなのではないかということなのだ。

そしてそうであるならば、もしかしたら常陸の竜蛇譚には、歴史時代を突き抜ける何かが混在しているかもしれない、と思うのだ。少なくとも縄文期の遺物と最古の文書記録と今それを感じられる地勢を併せ持っている土地というのはそうはないだろう。それらがより広く深く見渡せるところに立った時、夜刀の神は最古級の文書記録に見る蛇神であるだけでなく、本当に最古の蛇神であるという風格を見せるのかもしれない。

椎井の泉上の石祠
椎井の泉上の石祠
フリー:画像使用

memo

関東に「ヤト」の地名はめちゃくちゃたくさんあるのだけれど、「ヤト神」なる蛇神があちこちにいるのかというとそんなことはない。いたのかもしれないが、弁天さんや稲荷さんになってしまっただろう。んが、現状全く五里霧中ながら、なぜか大分県に夜刀の神がいる。

県南地方の夜刀神は蛇神でトビノオオサマと呼ばれ,富尾神社祭神佐伯惟治と同一視されている。これに憑かれると蛇の真似をするが,法者や巫女に頼むとすぐに落ちる。

怪異・妖怪伝承DBより

はて、さて。

夜刀の神 2012.05.25

関東地方: